風に運ばれて、微かに鐘の音が届く。
毎年繰り返されるそれは、常ならば彼にとって何の感慨も生まなかった。
だが、今年は・・・
「この辺でも除夜の鐘が聞こえるんですね」
あどけなく澄んだ声が耳をくすぐる。
「ああ、このビル街の一角に寺があるらしい」
「ふーーん、どこなんだろう」
彼の婚約者は周辺の景色を頭に思い描いきつつ、首を傾げた。
新年はホテルで迎えようと言う男に、家で過ごしたいと主張したのは彼女だった。
「大晦日は紅白を見ながら、コタツでミカンを食べるんですよ」
「俺のプライベートマンションにコタツはないぞ」
「物の例えですっ!」
まるで子供のように舌を出す彼女。
その邪気のない仕草に男はしばし苦笑する。
「二人でいられれば、それだけで嬉しいんですよ」
子供の頃から苦労をし贅沢に慣れていないこの女性は、頬を染めてそう付け足した。
「私ね、除夜の鐘を初めて聞いたのは中学生になってからなんです」
「なぜだ?家の近くに寺がなかったのか?」
「ううん、横浜は船の汽笛で新年を迎えるから・・」
ああ、そうだった。
この娘は母親と二人で横浜に住んでいたのだ。
少し遠い目をして彼女は続けた。
「椿姫の舞台を見るために汽笛の鳴る中、ラーメンの配達をしたんだっけ・・」
「?・・それは一体?」
婚約者の話を聞くうちに、男の顔はみるみる青ざめていく。
「真冬の海に飛び込んだだって!?
マヤッ!どうして君はそう無茶ばかりするんだっ!!」
「そんなに怒らないでくださいよ、もう・・年の最後にっ。
それに10年近く前の話ですよ」
「怒り納めだっ!全く君は昔から変わらないんだな!」
「私だって今はそんなことしませんっ」
どうだか・・彼は胸の内で毒づいた。
この娘は演劇に関することになると、他のことは目に入らなくなる。
長い間、彼女を見守り続けた男は、嫌と言うほどその事実を知っていた。
「でも・・」
瞬間、空気が変化する。
「あの時の私にはチケットを手に入れることしか、考えられなかった」
幼子のようにスネていた彼女の顔に、その面影は既になく。
そこにあるのは自らの職業に誇りを持つ、日本を代表する女優の顔だった。
・・ああ、分かってはいるのだ。
彼女にとって演劇は生きがいなのだと。
それを切り離したら、彼女は彼女でなくなってしまう。
例え己れの身を危険に晒そうとも、その情熱は消えることがない。
俺はこれからもこうして、彼女を見守っていくしかないのだろうか。
男の表情の陰りに気づいたのか、マヤが不安げに顔を覗き込む。
「速水さん・・?まだ怒ってるの?」
彼は目の前に現れた、柔らかな頬へと手をかける。
「心配なんだよ、君が。
俺の見えないところで無茶なことをして、傷つき、動けなくなってしまうのではないかと思って」
どこか、悲痛ささえ感じさせる速水の言葉に、彼女は小さく頭を振る。
「そんなことにはなりません。
だって、私には帰るところがあるもの。
速水さん、あなたの傍が私の還る場所です・・どんなときでも」
ふうわりと笑うマヤに、真澄の瞳が穏やかな色へと変わる。
頬にあった手が顎へと移動し、二人の唇が優しく重なった。
一瞬とも、永遠とも思われる時の中、カチリと時計の針が新たな年の幕開けを刻む。
「明けましておめでとう、マヤ」
「明けましておめでとうございます、速水さん」
彼は愛しい婚約者を腕の中へと引き寄せた。
「二年越しのキスだな」
「もう、速水さんったら!」
耳元で囁く真澄に、マヤの顔は真っ赤に染まる。
そう、今は何よりもこうして君と過ごせることが嬉しい。
おめでとう、マヤ。
これから何十年もこうして挨拶を交わそう。
君と、いずれできるであろう家族と共に。
彼は彼女を抱き上げると額に小さな口づけを贈る。
そしてリビングに闇が落ち、寝室への扉が静かに閉じられた。
目覚めたときに、また新たな年を二人で迎えるために。
<Fin>
新年最初の小説です。
年末に話を思いついたものの書く時間がなく、元旦の朝に仕上げました。
今年の方向性がこれで決まったようなものですね・・(^_^;)
でもこのネタは時期を外すと、次に使えるのは一年後なんですもの〜っ。
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