暗雲を散らす華






キャスティング

北島マヤ:kujidon  速水真澄:硝子  黒沼龍三:くるみん  水城冴子:瑠衣  
姫川亜弓:moe  月影千草:堕天使                               (敬称略)




「何やってるんだ北島っっ!!やる気あるのかっ!!」
 空を鉛色に覆い尽くす鬱陶しい雨雲さえも吹き飛ばさんばかりの怒声が響き渡るのは、今日だけ でも一体何度目のことだろう。ここ、キッドスタジオに集まる“「紅天女」黒沼チーム”の俳優たちは皆 それぞれ近くにいる者同士顔を見合わせ、申し合わせたようにうんざりとした表情を作っては見せ
合っていた。勿論、誰一人としてそんなことをしたいわけでも楽しんでいるわけでもない。この怒声が 響く限り、いや、この怒声の元になっている主役、北島マヤの不調が続く限り、自分たちは演技した くてもできないし稽古したくてもできない。全くの時間の無駄と言ってもいい状態なのだ。しかももう、 こんな日々が一体何日続いているのだろうか。皆じりじりと、自分の出番が来るのを待っているとい うのに。
 誰一人、マヤが不真面目で稽古に支障を来たしていると考える者はいないし、彼女の才能を疑う 者もいなかった。一方、演出家黒沼の実力と役者の才能を見抜く目を疑う者もまたいなかった。だが しかし、いや、だからこそ、今のこの状況には誰もがほとほと困り果てているのだ。誰も悪くはない。 それがまごうことなき事実でありながら、だが明らかに自分たちは迷惑を蒙っている。一体どうすれ ばいいと言うのか。その答えを出すことのできる者は、この場にはいなかった。主役の不調に苦心し ている黒沼でさえも、また、当のマヤ自身でさえも。
 だがここに一人、自分の力の及ぶ限りで、いや、下手をすれば自分の力の限界を超えてでもマヤ を助けてやりたい、などとおこがましくも思う男がいる。マヤと向かい合う位置に立ち尽くし、鬼のよう な、とはまさにこのことかと思えるほどに顔の皮膚を引っ張り揚げた表情で怒声を上げてマヤを叱責 する黒沼と当惑しながらも自分でもどうすることもできずにうなだれて、炎天下、暑さに耐え切れずに 萎れてしまった草花のようなマヤとの間に立ち、双方を交互に見つめながら、どちらにどうやって声を かけたらいいものかと悩む一真役の桜小路優、その人である。逡巡の末、今は怒りに猛っている監 督をなだめようとしたその時、おろおろと落ち着かない彼に気がついた黒沼が彼を指差しながらさら にマヤを怒鳴りつけた。
「お前は目の前にいる男に恋をしているんだ!分かってるのか!?」
 その言葉に、マヤは自分には恋をしていない、と突きつけられた桜小路。プライベートではそれが 叶わないことだと何度も思い知らされていた。だがせめて舞台の上、いや、役柄の上でさえも彼の愛 はマヤには必要とされていないのだ。あまりのことに監督の怒りを治めようと用意していた言葉さえ 口の中で凍ってしまう。
 監督・・・・・・・・・。多くの観客の心を読み取って、彼らの期待するような舞台を作り上げる。それが あなたの仕事なんじゃないのですか。それなのに、たった一人、あんなにわかり易い桜小路の心が 全く読めていないなんて・・・。
 その場にいた者が皆、黒沼のあまりにも桜小路を思いやることのない言葉に心の中で呟いた。そ して今まで信じてきたものが不確かなものなのかもしれない、との思いに至る者さえ現れた。つま り、この人本当に名監督なんだろうか?と。
 黒沼の、マヤが自分には好意を寄せてはいてもそれが決して恋ではないのだと突きつける言葉に 愕然とした桜小路。しかしその直後、マヤの短い「はっ、はい・・・」の返事に、彼女からも黒沼の言 葉を肯定され、もう完全に立つ瀬すら、今の彼にはない。同じ舞台で共演する仲間たちの前でこれ ほどまでに自分の恋を完全否定である。しかし彼も大人になった。おかげでもう、昔のように恋を拒 絶されたからと言ってその場から走り去ることもできない。全くもって大人になるということは厄介なも のである。
 だがそんな桜小路の気持ちなど一切興味がないのか、黒沼の彼に対するフォローはまるでなかっ た。
「少し頭冷やして来い!これ以上やっても進まん!休憩だっっ」
 投げつけるようにマヤに言葉をぶつける。だがマヤはその場から動くことができない。同じようにそ の場に突っ立ったままの桜小路とは、その理由は勿論、明らかに違ってはいたが。
「・・・・・・・」
「北島、どうした」
 彼女の気持ちにお構いなしに投げつけた休憩の言葉にも全く動こうとしないマヤに、黒沼は一旦
冷静になってうなだれる彼女に声を掛けた。
「すみません。ちゃんとできなくて・・・」
 絞り出すようなか細い声。その声からは、わかりきったことではあるが今の不調が彼女自身にも
どうしようもないことであり、彼女自身が最も悩み苦しんでいるのだと改めて黒沼に告げていた。
勿論それはわかっている。だがこのままでは「紅天女」の舞台に間違いなく悪影響を及ぼす。だから こそ、このマヤの不調をどうにかして解決しなくてはならない。その為には悩み相談でもなんでもして 彼女の苦悩を解決したかった。それが無理でもせめて、軽減させてやりたかった。黒沼はマヤを役 者としてよりもむしろ一人の人間として救ってやりたい、と思っていたのだ。
「原因は・・わかってるんだろうな?」
 先ほどまでの鬼のような表情とは打って変わった優しい瞳で黒沼がマヤに問い掛ける。マヤには 黒沼が本気で自分を心配してくれているのがわかった。自分の携わる舞台の主演女優としてだけで はない、そこには黒沼龍三個人としての、北島マヤ個人への思いやりが感じられたのだ。いっそこ の人に何もかも委ねて話してしまいたい。短いため息を漏らすほどの間、マヤは本気でそう思ってし まった自分を心の中で叱った。こんなにも不調の原因。阿古夜の恋の演技に集中できない原因。
それが何なのか、勿論マヤにはわかりきるほどわかっている。ただ一人の男性。速水真澄への思 慕が今のマヤの何もかもを支配しているのだ。演技だけではない。日常生活さえも彼への想いに支 配され、マヤの全てが滞っているのだ。だがそれを素直に答えることはできない。それもそのはず、 彼にはれっきとした婚約者がおり、その婚約者はマヤが持たない全てのものの、しかも極上のもの だけを持っているのだ。家柄、資産、美貌。そんな婚約者がいる人に、こんなちっぽけな自分の愛な ど必要であろうはずもない。いやそれどころか迷惑に想われるに違いない。迷惑を、かけることだけ はできない。したくない。そうしないためにはこの恋を自分の心の中だけに留めておかねばならない のだ。もし誰かに漏らしたら。静かな水面の落とした小石の起こす波紋のように、それがどんどん広 がって、いずれ彼の耳にとどくような事態に陥るとも限らないではないか。それだけは避けなければ ならない。マヤは本心を吐露して楽になりたい気持ちを懸命に抑え、うなだれたままただ小さく答え るだけだった。
「・・・はい」

 そのやり取りをその場に居合わせた者達は固唾を呑んで見守っていた。見てはいけないものを覗 き見しているような罪悪感に囚われるのは、マヤの内心の葛藤が垣間見えたからか。
 だがその時、妙なる歌のような美しい声が響き、皆一斉に入り口を振り返ることになった。ただ、
マヤと黒沼を除いては。
「外まで黒沼先生の声は聞こえていますわ。マヤさん稽古の方はいかがかしら?」
 咲き誇る、大輪の花のように美しいその人は姫川亜弓。もう一人の紅天女候補であり、マヤただ 一人をライバルと認める美貌の天才少女、名監督の父と名女優の母を持つ演劇界のサラブレッドの お出ましとあっては誰もが注意を引くのは当然のことだろう。なにしろ演劇の世界に長く身を置いて いてもそれまで一度も実際に彼女を見たことのない人間は大勢いるのだから。
「阿古夜は辛い恋をしているんじゃない。少し自分の気持ちに整理をつけて来い」
 彼女が入ってきただけで、それまでの稽古場の空気が一度に華やかになったのがわかる。それ は肌で感じられるほどに。まして黒沼は舞台の演出家だ。その空気の変化に気づかないはずがな い。自分のことでいっぱいいっぱいのマヤとは違うのだ。亜弓の登場を目の端に捉えながら、それで も今はマヤの方が大事とばかりに視線はマヤから逸らさない。
「30分の休憩だ」
 黒沼は最後にマヤの肩をポンと叩き、言葉だけでは伝わらないだろう励ましの気持ちをその手の ぬくもりから伝えた。
「・・・・・・・・はい」
 ためらいがちに答えるマヤに頷く黒沼。そんな彼の様子を見て、マヤはようやく心を決め、その場を 静かに去って行った。

「敵情視察か? そちらは余裕があると見える」
 意気揚々、とは言いがたいマヤの後姿を見送りながら、亜弓の顔も見ずに黒沼は話しかけた。
その場にいる者たちは皆、はらはらしながらその様子を見ている。実は「本物の姫川亜弓」を見られ たことに興奮するあまり、誰一人、なぜ“黒沼組”のライバル、“小野寺組”の阿古夜である彼女がこ の場に来たのか、考えてみた者はいなかったのだ。黒沼の言うとおり、本当に敵情視察なのか。
「おかげさまで。こちらは順調に進んでおりますわ。今日は、速水社長からもこちらでの稽古の見学 を薦められたものでして・・・」
 亜弓は、マヤが怒鳴られていたことにも、一人だけ休憩を申し付けられたことにも、また稽古が進 んでいないであろう今の状況についても、一言も口には出さず黒沼に対して対等に返すだけだった。
「それで、どうかな。うちの紅天女を見た感想は」
「マヤさんはまだ阿古夜をつかんでいないように思えますわ」
 少し考えてから、感じたままに話す亜弓の様子からは軽蔑や驕りは感じられない。彼女はただ、 演技する人間として役者、北島マヤについて抱いた感想を述べた。
 黒沼から30分の休憩を言い渡され稽古場から出て行こうとしたマヤは、一旦は稽古場から出て
行ったが実はすぐに戻ってきていた。恐る恐るドアの隙間から中を覗く。と、そこにはなんと亜弓がい て黒沼と何やら話し込んでいるではないか。マヤはまさに忸怩とした思いに耳まで染めて涙ぐんでし まった。ちょうど亜弓の「ジュリエット」を観た後、その見事な演技を模倣するつもりで無様な様を見ら れてしまった、あの時のように。
“あっ、亜弓さん・・・。あんなところを見られたなんて恥ずかしい・・・!!”
 黒沼に叱責されてうなだれていた惨めな自分を見られたのだ。とても戻れたものではない。マヤは すぐさま稽古場を去って給湯室にでも向かおうとしたまさにその時。
「やぁ、黒沼先生。こちらの天女様の調子はいかがですか?」
“はっ、速水さん!!”
 それは恋しい人の声。逃げだそうとしたマヤだが、彼の声にまるで磁石に引き寄せられたように再 びドアの陰に吸い寄せられ、身を潜めたままでその姿を隠れ見た。長身に誰もが認める端正な造作 の顔。数歩後ろに水城を従えて入ってきたようだった。今は亜弓と並んで立っているが、その様はと ても絵になっているとマヤは思う。そう。彼には亜弓さんや紫織さんのような美しい女性がお似合い なのだ。自分みたいなチビの出る幕などありはしない・・・。惨めな思いでマヤはそれ以上その場に とどまることもできず、愛しい真澄の姿を1分1秒でも長く見つめていたい思いに後ろ髪を引かれなが らも結局逃げ出してしまった。

「速水社長ごきげんよう。早速稽古を見させていただきましたわ」
 大都芸能の社長、速水真澄が黒沼に挨拶をする。亜弓が真澄に挨拶をする。二人の美形に一人 の野獣。その場に居合わせた役者たちは彼らを遠巻きに眺めているだけだった。決して中に入るこ とはない。できはしない。この三人のやり取りを眺めつつ、速水社長や姫川亜弓とは住む世界が違 いすぎ、黒沼重三とは神経の太さが違いすぎることをただ痛感するのみだった。

「正直なところ、少々行き詰っていてね。気持ちを切り替えさせようと休憩にしたところだ」
 マヤの不在の理由を、黒沼が真澄たちに話して聞かせる。今更隠し立てしたところで、どうせ先ほ どの自分の怒声は彼らに全て聞こえていたに違いないのだ。
「そう言えば、ちびちゃんの姿が見えないな。水城君、探してきてくれないか」
 それを聞いた真澄は気が気でないらしい。敏腕秘書、水城に命じて早速マヤを探させた。水城は 真澄の命を受け、小さくうなずきながら答えた。
「はい。探してきます」
 マヤを探すため、ハイヒールの音も忙しく小走りに稽古場を後にする水城。その速さはマヤを心配 する心の強さの現われだろうか。真っ直ぐな長い黒髪を揺らしながら去る彼女を見送った真澄は、改 めて黒沼に向き直った。
「そうですか、黒沼先生。それはちょうどよかった。実は黒婦人が今日、お見えになるんですよ」
 黒沼の太い眉が驚きで大仰に持ち上がる。勿論その場にいる役者たちもみなその顔に一様に驚 きの表情を浮かべている。
 「黒婦人」。言わずと知れた月影千草のことである。最愛の人、尾崎一蓮の喪に服するためか常に 漆黒のドレスしか身に纏わない往年の名女優、月影千草。一蓮の書いた戯曲「紅天女」のヒロイン、 「阿古夜」、「紅天女」の二役を演じたその見事な演技力は作者一蓮をもって「この役は千草にしか やらせない」とまで言わしめたほどの演技力の持ち主であり、彼からその上演権を譲り受けたただ 一人の人間でもある。マヤと亜弓の演技の師であることはこの世界に身を置く者にとって周知のこと であり、また一部の人間の間では、何度も死線をさまよいながらその度に不死鳥のごとく復活する、 一種不気味な存在としても有名だった。今は一切の演劇活動をせず、「生」の姿を見ることができる のは奇跡に近い。それは特別天然記念物を直に目にするに匹敵するであろう。伝説としてしか知ら ない演劇界の大御所、月影千草のことを「特別天然記念物」などと言っていいのか、と突っ込みを入 れる者すらなく、奇妙な精神の高揚がその場に満ちた。
「それで亜弓君にもこちらの様子を見にきてみてはどうかと声を掛けてみたのです」
 真澄の話は亜弓をも少なからず驚かせた。だがその驚きは、稽古場に散在する役者たちとは全く 違っている。素直な喜びが込められているのだ。何と言っても亜弓は彼女があの梅の谷で演じて見 せた「紅天女」を生で見ていた。あれだけの演技を見せ付けられては、自分の女優としての技術の 未熟さを突きつけられる思いがするが、それと同時にこの世にこれほどまでに素晴らしい演技をする 人間がおり、その人間に直接指導してもらえる自分の幸運を喜ばずにはおられないのだ。
「まあ、月影先生がお見えになるのですか!?」
 満面の喜びを浮かべる亜弓に頷きながら真澄は黒沼に話し続ける。
「月影先生の顔を見れば、ちびちゃんも元気になるかもしれませんね」
 だがその話に黒沼は何やら合点のいかない様子だ。
「若旦那、何を考えている?」
 突然の月影上京を訝しく思うのは何もおかしな話ではない。その疑問をぶつけたにもかかわらず、 真澄は空とぼけた顔で答えるだけだった。
「急な話なんだが、突然こちらにいらっしゃりたいと連絡があってね」
「あんたのところに連絡があったというわけか」
 その真澄の答えを引き継いで黒沼が胡散臭そうな顔で言葉を続けた。誰がそんな話に納得するも のか。だがこれ以上つついたところでその答えは聞けそうにない。黒沼は黙ってしまった。
「速水社長、先生のお体の具合はいかがですの!?」
 腹に一物持つ同士の雰囲気にも気づかないほど亜弓は興奮していた。その声には日頃の落ち着 きなど微塵も感じられない。それほど亜弓は喜んでいるのだ。
「今、とてもいいそうだ。折角の梅雨の時期なのに、梅の里では紫陽花も咲かないとかでね。それを 残念がっていらしたよ」
 亜弓の、まるで少女のようなはしゃぎぶりについ微笑がもれてしまう。真澄のその言葉が終わるか 終わらないかのうちに、よく響く声が聞こえてきた。
「私は、元気ですよ亜弓さん」
 そう。早くも噂をすれば影。不死身にして神出鬼没の黒婦人こと月影千草のお出ましである。
「おや、月影先生。思ったよりもかなりお早いおつきでしたね。正直驚きましたよ。今、ちょうどあなた の話をしていたところです」
 真澄が声をかければ亜弓も負けてはいない。
「月影先生、ご無沙汰しております。お会いできてうれしいですわ」
 まるで小躍りするように、主人にじゃれつく子犬のように素直に喜びを表現する亜弓。月影も思わ ず微笑んでしまっていた。
「月影さん、ようこそ・・というべきですかな。のんびり紅天女の試演見学とは思えませんが?」
 黒沼はかなり慎重にこの突然の月影の来訪を受け止めているらしい。言葉の端に皮肉な調子を含 めていた。

「もう来られてたようね」
 水城の声に伴われて入って来たのは他ならぬマヤである。給湯室で一人泣いていたマヤを見つけ た水城が上手く説得して連れてきたのだ。
―「さあ、マヤちゃん。あとで月影先生もいらっしゃるから、こっちにきて」
 「えっ、先生がいらっしゃるんですか?」―
 そんなやり取りの末である。
「やぁ、見つけたぞ、ちびちゃん。一体どこに隠れていたんだ?キミは小さいんだから、隠れたら見え なくなってしまうじゃないか。それともこれも紅天女を掴むための稽古なのか?くっく」
 おどおどと入ってきたマヤに、早速意地悪なからかいの言葉をかける真澄。彼ならではの愛情表 現なのだ、と言っても誰にもわかってはもらえまい。勿論マヤにも。
 だが今のマヤには師、月影の突然の上京の方が気にかかった。
「月影先生っ!!お体の方は大丈夫ですか?」
 マヤの問いには答えずにちらりと一瞥しただけで月影は黒沼に向かって話しかけた。
「試演見学させてもらいたいのですが、稽古どころではないようですね」
 亜弓もマヤを奮起させようと挑戦的な言葉をぶつける。
「マヤさん、あなたはわたしのライバル!!試演ではけして負けないわ」
「亜弓さん、その様子では自信があるみたいですね」
 亜弓の力強い言葉に満足げに頷く月影。
「ええ、もちろんですわ。もうすでに紅天女はわたしのなかにいますわ・・・」
 亜弓の自信に満ちた答えを聞き届け、そして一方のマヤを見据えると、月影は厳しい表情で言い 放った。
「それに比べてマヤ、あなたはなにをしてるのですか!」
 月影の叱咤にうなだれるマヤ。その成り行きを黙ってみていた黒沼は一人心の中で呟く。
“北島に喝を入れるためにはるばる梅の里からお出ましか・・呼び出したのはおそらく若旦那だろう な”
 一方うなだれたままのマヤは心の中で苦しい胸のうちを吐き出すことも出来ずにいた。
「・・・っく」 
“先生・・・。阿古夜が紅天女がわからないんです!紅天女の仮面がわからない・・・”
 その一方で突然現れた真澄の存在も気になるのだった。
“速水さん。・・・紫の薔薇の人・・・。なぜここへ?あなたは何を考えているんですか・・・?”
 千々に乱れる、とはこのことを言うのだろうか。
 
 マヤだとて、好き好んでこれほど苦しんでいるのではあるまい。それは十分にわかっている黒沼 は、まして今、恐らくその原因になっているであろう真澄を前にしたマヤの気持ちを考えてなんとかし てやりたいと思った。さて、どうしらたいいのだろう?この、傍目にはじれったい二人を、とても自分
ひとりで結びつけることはできそうにないと黒沼は判断した。ここは一つ、強力な助っ人が必要だ。 二人の関係をある程度知っていて頭の回転が速く機転の利く人物。今この場には一人しかいない。
「・・北島。月影さんを立たせたままでは身体に悪いだろう。皆を休憩室まで案内しろ」
「あっ、はいっ。・・・先生、こちらです」
 その一言に救われた思いでマヤは返事を返すと月影はじめ真澄、亜弓らを休憩室へと導いて行っ た。
 その時、当然真澄に付き従うはずの水城がその一団とわずかな距離を持って、黒沼の方を気にし ている様子を見せていた。
「黒沼先生。ちょっとよろしいですか?」
 どうやら彼女も自分と同じ考えらしい。察した黒沼は、だが全く水城の思惑に気がつかないふりを して答える代わりに手伝いを頼んだ。
「ああ、そこの秘書さんはちょっと手伝ってくれ。美味いコーヒー豆があるんでな。皆に淹れてやってく れ」
「はい。ではすぐに準備させていただきます」
 水城にも、黒沼の考えが通じたようだった。つまり、二人きりで話したい、と言うことが。
「給湯室はこっちだ。 他のメンバーは今日は稽古は中止だ!わかったな!!」
 怒鳴るように宣言すると、この成り行きを興味深々で眺めていた、最早すっかりヤジウマになってし まっている俳優たちもそれ以上この場にとどまり続けることもできなくなってしまった。皆、渋々、と
いった面持ちで稽古場を後にしていく。よく見ればそこに桜小路の姿はない。やはりさっきの黒沼の 言葉とそれに止めを刺したマヤの言葉が堪えたのだろう。実はマヤが30分の休憩を告げられた時 いつかの公園でのように走り去ってしまっていたのだ。もっともそれで正解だったのかもしれない。
この後に起こるであろうことを思えば、まったくの無意識でやったにしては桜小路も思いのほか勘の いいところを見せたと言えるだろう。

 精一杯後ろ髪を引かれながら帰る彼らの後姿を見た後で、黒沼は水城を伴って給湯室へと向かっ た。
「流石にコーヒーを淹れる手つきがいいな。・・・で、俺に何か話があるんだろう?」
 手馴れた様子でコーヒーを淹れる水城の、その手際のよさに思わず見蕩れた後、黒沼は切り出し た。何しろ黙っていたら本当にコーヒーを淹れるだけで終わりそうなのだ。話がないわけではなく、こ ちらから切り出すのを待っている。全く利口な女だ、と黒沼は呆れながらも思う。まぁいい。ここは一 つ、俺が折れてやろうじゃないか。
「先生。マヤちゃんの不調の原因はおわかりですの?」
「原因・・か。まぁ、だいたいはな。そういうお前さんは心当たりがあるのか?」
 まるで全神経を“コーヒーを淹れる”ことだけに注いでいるかのようにこちらを見もせずに問い掛ける 水城に黒沼は答えた。それと同時に尋ねることも忘れない。何しろまだ互いに腹の探りあいの状態 なのだから。
「まあ。少しはあると申し上げるべきかしら」
 コーヒーを淹れる手を止めて、やっと黒沼の顔を直視しながら水城が静かに答えた。
 ふん。やっと乗ってきたか。黒沼は今こそ互いに本心からこの問題について話し合えると確信し た。
「お互い腹を割って話すとするか。速水の若旦那の秘書であるあんたがわざわざ北島の不調につい て俺に問う・・ということは、考えていることは同じだろう」
「原因は社長ではありませんか?」
 話し合う覚悟がついた水城は無駄な言葉を一切省いて端的に答えた。そうこなくちゃな。黒沼は満 足げに頷いた。
「ああ、そうだ。間違いないだろう。隠しているつもりのようだが、北島のあの視線を見れば一発だ な」
 そこまで自分の確信していることを話すと、今度は水城が正直に話す番だと言わんばかりにじっと 彼女を見据えて、尋ねた。
「若旦那は・・どう思ってるんだ?あんたは知っているんだろう?」
 水城は今度は真正面に黒沼を見つめはっきりと答えた。
「ええ。社長は昔から彼女のことをずっと気にかけていらっしゃいました。間違いなくマヤちゃんのこと を愛していらっしゃいますわ」
 その答えを聞いて黒沼はやれやれ、と天井を仰いだ。
「全く不器用者ばかりで手に負えん。このままでは試演もままならんからな。・・協力してくれるか?」  正直な黒沼の言葉に、水城はつい微笑んでしまった。どうやらお互い本当に困り果てているような のだ。
「ええ、もちろんですわ。このままでは、こちらの仕事にも差し支えますから」
「よし、利害一致だな。では・・・」
 我が意を得たりといった顔で身を乗り出す黒沼は、水城に何事か話し始めた。

 
 一方、休憩室では。そんな二人のやり取りなど知りもしない真澄、亜弓、マヤ、月影の4人がくつろ いでいた。
「速水社長は、試演後結婚なさるとママからききましたわ。もう式場など決まりまして!?」
「あぁ・・・・・・。いや。まだ決まってはいない」
 演技に対してはきわめて真面目に考え取り組み、稽古にも熱心な亜弓。日頃から浮ついたところ など全くない、年齢の割りに大変落ち着いていると思われる彼女だが、やはり年頃の女性なのだろ う。興味深々で真澄に尋ねている。そんな亜弓のストレートな質問に、さしもの真澄も多少たじたじ、 といったところだった。
「鷹宮翁と義父とで話を進めているんだろう。おれには関係ないことだ」
 実際真澄には、挙式の件など一切関心がなかった。自分の知らないところで様々なことが着々と 進行しているらしいことは知っているが、それらは全て秘書である水城が把握していればそれでい い。自分は当日、花婿全とした顔で人々の前に立てばそれでいいのだ。それまでにすることがもし あれば、それも水城が全て教えてくれるだろう。そんな程度にしか考えていないし考えることもでき ない。仕事の方にかける関心のほうがはるかに強いのだ。勿論それよりも強いのは、ただ一人の人 への想いだけだろうが。
「紫織さんは本当に素敵な女性ですわ。ねぇマヤさん・・・」
 真澄の投げやりな態度にも気がつかない亜弓は、むしろ真澄の結婚と言うよりも、結婚そのものへ の関心が強いようだった。憧れ、とでも言うのだろうか。自分と同じ歳のマヤも当然同じ気持ちだろ う、と考えたのか、亜弓はマヤに同意を求めた。マヤの心など何も知らずに。それがどんなに残酷な 仕打ちであるか知らない彼女は、まるで天使のように無邪気な笑顔を向けてくる。
“ああ・・・、速水さん。あなたは結婚してしまう。この想いはどうすればいいのだろうっ・・・”
 真澄の結婚の話を聞かされて、胸が張り裂けそうに苦しいマヤ。そんな時にかけられた言葉でも、 答えなければならないだろう。どんなに辛くとも答えなければ不自然であり、不自然に振舞えばもし かしたら誰かに、自分の心を、彼への思慕を見破られてしまうかもしれないからだ。
「ええっ、そうね。亜弓さん」
“紫織さん・・・。そう紫織さんは素敵なひとだわ。私なんかがかなうわけがない”
 精一杯努めてさり気ない風を装っても、現実を突きつけてくる亜弓に対する答えはやはりどことなく 空々しく聞こえたらしい。
「マヤさんなんだか元気がないように見えるけど、どうかなさったの!?」
 さすがの亜弓も何か感付いたらしく、心配そうにマヤの顔を覗き込んだ。
「そんなことないですよ!!元気ですよ!!今年は暑いから少しバテちゃったかな?」
 つとめて明るく答えるマヤに、その場の誰も不審には思わないらしかった。
 その時、成り行きを黙って見ていた月影までもが話に加わってきた。やはり彼女も何かしらの関心 があるらしい。
「ふっ、あなたが結婚ねぇ、真澄さん」
 彼との初めての出会いは、あれはいつのことだったろう。確かまだ学生で、速水英介の秘書のよう なことをしていたはずだ。とても美しい顔立ちの子供だった。まだ幼さの残るその顔で、仕立てられた スーツを着こなし、心を失くした氷のような表情で父英介の後について歩いていた彼を思い出す。自 分の年齢を実感することは日頃ほとんどない。それは恐らくそのことを考えるのがいやだから、無意 識に避けているだけなのだろう。ただこうして時々自分以外の誰かの成長や変化によって思い知ら されるだけなのだ。
「おや?おかしいですか?月影先生。ぼくには勿体無い、素晴らしい人ですよ」
 月影の皮肉めいた笑いが気になったのか真澄は反論して見せた。“ぼくには勿体無い、素晴らし い人”と言う言葉は彼にとって、単に紫織を表面的に飾る心のこもらない言葉にしか過ぎない。
だが、それを知らないマヤの心をひどく痛めつけるのだ、と言うことを知らない真澄の言葉が休憩室 に一際大きく響き空気に残り続けた。
 その時、ドアが開いた。トレイにコーヒーを捧げ持った水城を従えて黒沼が入ってきたのだ。
「おや、若旦那の結婚の話ですか・・ああ、秘書さんご苦労さん」
「水城君は役に立ちましたか?黒沼先生」
 黒沼に問い掛けつつも、真澄には彼女がそつなく仕事をこなしてきたことはわかりきっていた。何し ろ彼女の淹れるコーヒーの美味さは誰よりもよく知っているのだから。
「ああ、大助かりだ。有能な秘書を持つと助かるな。うちでスカウトしたいよ」
「ありがとうございます。先生」
 とんだ狸と狐である。二人はなにやら画策していることなどおくびにも出さず、何食わぬ顔で振舞っ ているのだ。コーヒーを配る水城を見ながら何も知らぬ真澄は真面目腐った顔で軽口を叩いた。
「はっはっは。それは困りますね。彼女は大都の財産だ。いくらあなたの頼みでもこればかりは譲れ ませんよ」
 そんな真澄の軽い調子も、だがしかし、突然として亜弓が放った一言で凍り付いてしまう。
「速水社長にとって紫織さんが「魂のかたわれ」だったのですね・・・」
 勿論、悪気などあろうはずもない亜弓の一言。真澄の、そしてマヤの心中など知らないのだから
誰がそれを責められよう。まして真澄は表向き、紫織を大変に大切にしているのだから、誰もがそう 思っても不思議ではない。亜弓もそんな人々の中の一人だ、というだけにすぎないのだ。
「いや、俺にとっての「魂のかたわれ」は・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・いや、そう、なのかもしれな いな・・・・・・・・・・・」
 真澄の言葉がどんなに歯切れが悪くとも、そのことにマヤは気がつかない。気がつく余裕がないの だ。心の中は悲しみに飲み込まれてしまっている。
“「魂のかたわれ」・・・。そうよ、速水さんがあたしの「魂のかたわれ」の訳ないじゃないっ!!”
“紫織さんという、あたしよりもとっても素敵なひとがいるのだから・・・”
 わかっていたこと。諦めていたこと。自分をなだめ、説得し続けてきたこと。それなのに、改めて突 きつけられればマヤはその苦痛の衝撃に耐えかね思わず顔を歪めてしまった。
 一方の真澄も。まるで体の中まで凍てつかせる氷の塊を無理に飲み込んだような顔をしている。 真澄が途中まででかかって飲み下した言葉。そこにこそ、彼の本心が隠されているに違いない。た だし、筒抜けにわかっている人間がいるということに、彼は気づいていないようだが。
 明るい話題に浮き立っている雰囲気の中、真澄の苦しげな表情に殆どの人間は気がついていな い。だが黒沼と水城は彼の苦悩を見抜いていた。彼が苦しんでいれば苦しんでいるほど都合がい い。今が仕掛けるチャンスだろう。
「結婚式はずいぶん豪勢にやるらしいじゃないか、なぁ秘書さん」
 わざと大きな声で水城に話しかける黒沼。勿論水城も心得たものでさり気なく皆の注意を引くよう に声を少し強めに答えた。
「そうですね。盛大なものになりますわ」
「なんでも花嫁の名前にちなんで紫色で統一するとか?」
「ええ、紫織様のご希望ですから」
 自分の結婚式の話をしているというのに、真澄は他人事のようにまるで関心がなく、その態度は一 貫していた。むしろそんなことよりも気になるのはマヤのことのようだ。
「・・・・・・・・・・・・どうした?ちびちゃん・・・。顔色が随分と悪いようだが・・・?」
 はっと顔を上げるマヤ。こんな表情、見られて疑われたらどうするの?しっかり、しなくちゃ。彼のた めにも・・・。
「だっ、だいじょうぶですよ〜〜〜」
 努めて明るく答えたつもりだ。だが舞台を降りると途端に大根のマヤ。普通ならマヤの明らかに元 気のない様子に気がつき問い詰める真澄だろう。だがこの時は水城によって突然に落とされた爆弾 によって完全に思考をそちらに持っていかれてしまったために、それもできなくなってしまった。
「室内の装飾、ドレス、それに花嫁のブーケに使うのは・・・何の花だったかな、秘書さん」
「紫のバラです。先生」
「ああ、そうだ。珍しいからと紫色のバラにするという話だったな」
 黒沼と水城の会話は、まさに真澄の意識を一瞬にして全てさらってしまった。
「・・・・・・・・・・・・何っ?それは本当か?水城君!!」
 顔面蒼白どころの騒ぎではない。顔からは血の気が引き、額から目じりにかけ青々とした筋が
何本も縦に入っており、目はどうやってか黒目がなくなり真っ白に剥いている。
「あら、社長はご存じなかったのですか?私はてっきりお二人でご相談されたのかと思っていたので すが」
 水城は大仰に驚いた顔をして真澄を見つめた。なかなかの役者である。もしかしたら彼女も「紅天 女」の候補に入れて差し支えないかもしれないな、などと黒沼はふと考えた。実は紫織が紫のバラ を所望した事実など一つもない。紫織と言えば蘭を丹精していることくらい真澄だとて知っているはず だ。彼女が温室まで建ててもらって育てている蘭にこそ関心と愛着を持ちこそすれ、なぜバラになど 惹かれると思うのか。そこまで真澄は紫織の、そして式のことに関心がないのだろう。これは結婚式 の準備に一切の関心を示さずまるっきり水城に任せ切りの真澄の迂闊さを利用して真澄に本心を吐 露させようとする黒沼と水城の計画なのだから、ここで真澄にこれぐらい驚いてもらわなくては困るく らいだ。この真澄の驚きようさえもこちらの計算通りだった。
“・・・紫のバラ!!”
 黒沼と水城の会話にマヤもまた激しい衝撃を受けていた。そもそもこの計画は真澄一人に向けら れたものではない。真澄がマヤに紫色のバラと援助と励ましを送り続けていたことを知っている水城 によって、マヤにも仕掛けられた計画だったのだ。そしてそうとは知らないマヤもまんまとその計画に ひっかかってしまっていた。
“あたしと速水さんをつなぐ唯一のもの・・・”

「今初めて聞いた。即刻取りやめてくれ。花なら他の、どんな高価な花でも構わない。俺が一切を負 担しよう。だから紫のバラだけは取りやめるよう、手配してくれ、水城君」
 真澄の慌てぶりに黒沼は内心笑いをこらえるのに必死だった。もっとも本人はいつものように澄ま した顔をして取り繕っているつもりなんだろうが、本当になんてわかりやすい男なんだ。桜小路とどっ こいどっこいだな、などと意地悪くすら思ってしまう。
「いくら、社長でもそれはできかねますわ。紫織様に結婚式の準備をお任せになられたからではござ いませんか」
 ここぞとばかりに、公私に関係なく一切合財押し付けてくる真澄に対してチクチクと嫌味を言いつつ 日頃の鬱憤晴らしまでをちゃっかりしている水城。勿論真澄には反論のしようもないことだった。何し ろ、事実なのだから。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わかった。その件に関しては後で俺が直接紫織さんに頼んでみるよ」

 紫色のバラ。それは滅多に見かけない珍しい物だ。それだけに一度でも見ればそれは人の記憶 に残るのだろう。亜弓は過去に見た光景を思い出していた。
「まあ、紫のバラはたしかアルディスのときにもたくさん届いていましたわ〜」
 その言葉を、話の接ぎ穂として水城が聞き逃すわけがなかった。
「そういえば、マヤちゃんにも紫のバラの人がいたわよね」
 今こんな話題の時に“紫のバラの人”の話など、たとえ亜弓でも水城でも、出して欲しくはなかっ た。だが、事情を知らない彼女らを責めることもできないマヤはちら、とそれとはわからぬように真澄 を見た。心の中の苦しさも、彼の横顔を見た瞬間に幸福に変わってしまう自分の心の動きに戸惑い ながらも、マヤは水城に向き直り笑顔で答えた。
「はい。初めての舞台からずっと私のファンの方で、いつも私を見守ってくださってるんです」
「まあ、初めての舞台から・・・」
 亜弓もその話に加わり、女たちは楽しげに話しているようにさえ見える。それぞれの心の内は決し て見せずに。
「最近はどうなの?紫のバラは届いているの?」
 まるで真澄に対する当てこすりのようにジロリと真澄を睨みつけながら言う水城の視線に結構グサ リと傷付いている真澄。その様子に水城は大いに満足だった。これぐらいのことはさせてもらって当 然だろう。実務では間違いなく給与に反映してもらっているが、精神的な負担に対する対価やケア は何一つないのだ。全く心配するだけ損なのに、この二人を放っておけない自分と、そんな自分の 心も知らずにいつまでもぐずぐずし続ける真澄が憎らしい水城だった。
「最近ですか・・・・」
 最近、マヤの元へ紫のバラは届いていない。それを知っていてあえてマヤに尋ねる水城。ここでも また真澄の良心をちくちく刺してやろうと言う魂胆だ。勿論これは日頃の恨みを晴らすためばかりで はない。真澄が思い切って自分から動き出すように仕向けるために、あえてやっていることなのだ。 と。自分に言い聞かせなければこの真澄いびりが楽しくて楽しくて仕方のない水城である。
「そうよ。最近は届いてないの。紫のバラ?」
 最近届いた紫のバラ・・・。その言葉はマヤに、つらい出来事を思い出させた。あの時。あの人は
一緒にいたのだ・・・・・。甦る恐怖に体が小刻みに震えてきてしまう。
「北島、どうした。震えているぞ」
 真っ暗闇の水の中。空気の全くない場所、上も下も左も右もわからない。強い力で引っ張られ、自 分の意思で体を動かすことも出来ないあの恐怖。それは経験したことのある人間にしかわからない ものだろう。あの時・・・・・・・・・・。助けて欲しかった人はただ一人、だったのに・・・。
「桜小路くんと食事に行ったレストランで、メッセージと一輪のバラを頂きました。あのとき、速水さん も同じレストランにいらっしゃいましたよね?」
 ギクリ、と言う音が聞こえるのではないかと思えるほど真澄は大きく身じろいだ。
「あ・・・・・・・・・・・・・。そう、だったかな・・・。いや、すまない、はっきりとは覚えていないな・・・」
 気づかれていたのか。いや、そんなはずはない。見られていた記憶がないのだから。だがしかし、 マヤは知っている。と言うことはもしや紫のバラの人の正体にも気づいているのか?マヤの言葉か ら、これから何かが起こる予感がする。今、何かが動き始める予感がする。真澄は懸命に頭を働か せてその予感に対処しようとしていた。
「私が海に落ちちゃって、大変な騒ぎになってたと思うんですけど・・・。覚えてないですか?速水さ ん」
 やはり見られていたのだ。今更とぼけては格好がつかない。認めてしまえば後で取り返しの付か ないことになりそうだ、と思いながら潔くないと思われるのも本意ではない真澄は素直に認めること にした。どうやら必死なマヤに畳み掛けられて渋々認めることも十分に格好が悪いということには気 が付いていないらしい。
「.................気がついていないと思っていたのにな・・・。気がついていたのか。
あぁ、確かに覚えているよ・・・」
 よもや真澄が認めるとは思わなかった。もう十分に分かりきっていることを認めさせるなら、今が
チャンスかもしれない。そう思い、なおも追い詰めるマヤ。
「あのレストランにいらしゃった方の中に「紫のバラの人」がいらっしゃると思うんですが・・・」
「・・・・・・・そうだったのか。いったいどんな人なのか、見てみたかったな。残念だ・・・」
 あくまでもとぼけるつもりの真澄。彼としてみれば当然だろう。まさかこれだけの人間の前で「は い、自分が紫のバラの人でございます」と言えるわけなどないではないか。何しろここに揃っている 人間はみなマヤと紫のバラの人の関係、マヤと自分との関係を知っている者たちばかりだ。「大都 芸能の速水真澄」がにマヤに対して行ってきたひどい仕打ちの数々。そしてそれとは正反対に紫の バラの人がマヤに対して与え続けた無償の援助の数々。その二人が同一人物だなどと知られては その理由を知りたがるのは必至だろう。そうなっては面倒だ。何しろ自分は正々堂々とマヤに求愛 することも適わない身なのだから。誰にもわからなくてもいい。一生マヤへの想いだけを胸に抱き締 めて生きていくと決めたのだ。これでいいんだ。そう、これで。こうでなくてはならないのだ。真澄は自 分に言い聞かせながら己の言葉の余韻を楽しんでいた。
 だがここに、彼のそんな密かな目論見を決して許さない人間がいた。しかも二人も。片や自分の演 出家生命をかけた舞台の女優の不調に泣く監督。片や上司の悶々に振り回されてイライラしっぱな しでそのせいか最近目尻の小じわが気になりだした秘書である。二人はそれと悟られぬよう目と目 を交わし小さく頷きあった。なかなか動こうとしないこの優柔不断男にいよいよテコ入れする時がきた ようだ。黒沼が重々しく口を開いた。
「若旦那、あんたが紫のバラをブーケに使いたくないのはもしかしたら北島に気兼ねをしているの か?」
 突然何を言い出すのだ、この男は。そんな驚愕の目で黒沼を見つめ、真澄の表情は固まってし
まった。そんなことを簡単に認めるわけがないではないか。認められたら今のこんな泥沼状態になど なっていはしない。これ以上、つついてくれるな。真澄は懸命に願った。
「北島にとって大事な花だから、と。長い付き合いのあんただからな」
 だが勿論黒沼は真澄のそんな気持ちなどお見通しだ。演出家としてそれなりに高い評価を得てい るのも伊達ではない。ここはこれ以上押してもかえって真澄の心を頑なにしてしまうに違いないだろ う。黒沼は動物的な勘で一瞬にしてそのことを見抜いた。どれ、面倒だが一旦引いてみるとするか。 追い詰めて警戒心をフル稼働している時よりも、ほっと気の緩んだところを突く方が効果は絶大のは ず。人の心などそんなもので、そうそう複雑なパターンを持ちえないものなのだ。それはたとえ舞台を 観に来た観客のものであろうと、恋に苦しむ一人の男であろうとも、そう大して変わらないだろう。
「あぁ・・・、まぁ、そんなところですね・・・」
 それが黒沼の策略だなどと気が付かない真澄は渡りに船とばかりにその言葉に飛びつく。だが即 座にマヤが完全否定した。
「いじわる虫の速水さんが、そんなことするわけないですよ!!黒沼先生!!」
「失礼だな、ちびちゃん。こう見えても俺はキミには随分気を遣っているつもりだが?」
 マヤのいつも通りの憎まれ口に、つい真澄も軽口を叩いてしまう。和やかな空気になってきたとこ ろだが、黒沼にはそれを許すつもりはない。この一言で止めを刺してやるから、覚悟して置けよ、若 旦那。決着は今日、つけてやる。
「あんたが「たった一人の人のために贈る花」だから・・抵抗があるんだろう?」
 
 黒沼のただならぬ雰囲気に、真澄も途端に気色ばみその真意を見抜こうと瞳の底を探るように見 つめると、冷たくさえ聞こえる硬い声で問い返した。
「...............黒沼さん。一体何が言いたいんだ?」
 だが黒沼とてこの程度の抵抗は最初から予測してている。何しろ往生際の悪さでは天下一品だと 水城から聞かされていたからだ。
「キレ者と評判の若社長にしては察しが悪いな。その一人が誰なのか、って話をしてるんだよ」
「真澄様。いい加減、自分の気持ちに素直になったらどうですか」
 突然、水城が口を挟んできた。真澄と黒沼。二人の男の息詰るようなやり取りを見守る亜弓と
月影。なんのことかわからない彼らは話に入ってこれないだろう。だが話を二人だけに留めておけば また逃げ切られてしまうかもしれない。この場にいる人たちも巻き込んで真澄の逃げ道を塞いでしま おうと言う魂胆なのだ。
「なんなんだ、二人して・・・。俺に何を言わせたいんだ?」
 まさか最も信頼する秘書、水城が黒沼と結託しているなど疑うこともできない真澄は状況が飲み込 めず、なんとか理解しようと、明晰との評価も決して過度ではないと自負している頭脳を懸命に働か せた。

「もしかして紫のバラと速水社長、マヤさんは何か関係があるのかしら・・・」
 ぽつりと亜弓がつぶやいた。水城は心の中でほくそ笑む。亜弓は女優として、人並みはずれて勘 がいい。勿論月影もそうだろう。これでここにいる全員に、真澄が紫のバラの人であると言うことは遠 からずわかるはずだ。さぁ、どうするの?真澄様。もうあなたに逃げ道は残っておりませんことよ?
水城はこの時点で、自分と黒沼との勝利を確信していた。
「北島は恋の演技が出来なくて困っているところだ。それでは紅天女の試演は成功しない。俺として もなんとかしたいところでね」
 黒沼もまた、勝機を感じていた。この男を落とすには、外堀から埋めていくしかないだろう。逃げ道 を塞いで身動きが取れなくしてしまえば、案外脆いかもしれない。だが、真澄はまだ強情だった。
「それならちびちゃんが恋をすればいいことじゃないんですか?たとえばほら、相手役の桜小路くんと か・・・」
 あまりの往生際の悪い態度にさすがの黒沼も多少の怒りを禁じえない。本当に腹が立ってきた。
この男さえ愚図愚図せずにマヤを、そしてマヤを受け入れることで生じる全てのものに立ち向かって いくだけの覚悟を決めさえすれば、ここまで物事は大きくならなかったはずだ。優柔不断で事態を悪 化させていく一方の真澄が、彼には理解できなかった。そう思えば思うほどに怒りは大きくなってい く。黒沼は目を大きく開け、気迫を込めた視線で真澄を見据え、凄みを利かせた声で一喝した。
「あんたにかかってるんだよ、若旦那。・・・分かるか、言っている意味が!」
 どんなに怒りを込めたとしても、真澄はどうせまたいつもの調子でどこ吹く風とばかりいいようにあ しらい、するりと逃げようとするに違いない。それさえもわかっているのだ。ただこちらがどれだけ真剣 に考えているのか、せめて少しでもわかってもらいたくて絞り出した言葉だった。しかしこの時、真澄 は黒沼が思ってもいないような反応を返しひどく彼を驚かせたのだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この俺に、一体どうしろと言うんですか!」
 見れば真澄は、まるで追い詰められた少年のように顔を紅潮させ、額には苦悶の色を濃くにじませ ているではないか。
「憎まれているんだ、彼女に!この子の母親を殺したも同然の男なんだ!そんな俺に、彼女を誰より も想っていると、言えと言うんですか、あなたは!?」
 真澄は取り乱していた。黒沼と自分の二人きりしか見えなくなってしまうほどに。どうやらマヤへの 想いを勘付いているらしい水城はともかく、亜弓や月影が、まして、決してこの想いを打ち明けはしな い、と誓ったマヤさえもがこの場にいるのだと言うことさえも最早忘れてしまっているらしい。いや、
もしたとえ気が付いたとしても、もう止めることなどできなかっただろう。あまりにも長い年月、心の中 に溜め込んでいたこんなにも苦しい想いをぶちまけてしまうことの開放感と爽快感は、真澄の臆病な 心を見えなくしてしまうほどに強烈であり、真澄はその快感に近い高揚を、もう手放せないのだった。

「・・・だそうだ、北島。 どうする?」
「は・や・みさん!?」
 黒沼が、固まってしまったマヤの意識を呼び戻そうと声を掛けると、マヤはようやく驚きで固められ てしまった唇をこじ開けるようにして言葉をこぼした。
「憎んでいるのか、若旦那を?」
 黒沼がマヤにもう一度、答えのわかっている質問を投げかける。
 憎んで、いる・・・?誰、が・・・?あたしが・・・?誰、を・・・?速水さんを・・・・・・・・・・?
 黒沼の言葉をきっかけに、まるで真澄の感情の奔流に一緒に飲み込まれてしまったかのように
マヤもまた己の感情に素直に心の中に押し込めていた想いをぶつけた。
「そんなことないです!!そりゃ、憎んでたときもありました。でも、それはそれが一番楽だったか ら!!」
 マヤの激しい感情の爆発にその場にいる人間はみな、驚きから身動きもできずにいた。何も知らな い亜弓や月影はいざ知らず、全てを知っているはずの黒沼や水城さえ、そのあまりの強さと深さに 驚きを通り越した衝撃を感じた。
「速水さんを憎むことで、自分が母親を捨てた事実から逃げてただけです」
 マヤはうつむき、まるで自分の胸に、その内側に語りかけるように静かに言葉を続けた。
「いや、俺が引き離したんだ。君と母親とを・・・。すまなかった.....」
 自分とマヤとの間に立ちはだかる高くて厚い壁。彼女の母親の死は、二人の間で今はもうまるで なかったかのように封印されてしまっているが、だからと言って決して消えてしまっているものではな い。くすぶっているだけなのだ。何かの拍子、空気に触れればまた燃え盛るに違いない。真澄はそう 思い、常にそのことを恐れていた。
「一番最初に母親を捨てたのは、私なんです!!今は、速水さんを憎んでません!!」
 今はもう、はっきりとそう言える。演技がしたい。お芝居がしたい。ただその一心で、母のことを本 当に理解しようともせずに家を飛び出した親不孝な自分。母が亡くなった時、それを認めたくなかっ たあまりにも幼かった自分が、真澄を傷つけたのだ。にもかかわらず彼は、変わらずにずっと支え続 けてくれていた。それは決して罪悪感とか贖罪の気持ちだけではないと信じたい。
「謝らないで下さい。速水さん。そのこと以上に、あたしは速水さんにお礼を言わなきゃいけないんで す!!」
 うつむき、顔も上げられず苦しげに打ち震える真澄の、その握りしめた拳をそっと小さな手で包み込 むと、しっかりとした口調で、マヤは思いを伝えたのだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・礼・・・?この俺に、きみが・・・?」
 信じられない許しを得、恐る恐るマヤの顔を、その瞳を見つめ、真澄はその言葉の先を待った。
「ずっと、速水さんが言ってくれるの待ってました・・・。でも、もう待てません!! 速水さん、速水さんが 「紫のバラの人」ですね?」
 静かに、言い聞かせるように真澄に語りかけるマヤの瞳には、果てのない慈愛の表情が浮かんで いる。何もかもを飲み込み、何もかもを包み込む。その強い優しさが湛えられていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っ!!き・・・・・・・・・・・・・・・きみは知っていたのか・・・・・?」
 驚きのあまり、マヤに包まれている拳から血の気が引き一気に冷たくなっていくのがわかる。その 血は全て激流となって顔に上ってしまったのかと思うほど額の血管は膨れ上がりどくどくと真澄の頭 を締め付ける。痛みに耐え、一言ようやく吐き出すと真澄は、だがしかし、にわかにはマヤの言葉を 信じられずにいた。
「・・・・・・・・・・・ええ。「忘れられた荒野」のメッセージで初めて気づきました。そして、そのことが
速水さんへの見方も変えさせてくれた・・・」
「何だと!?そんなに前から・・・・・・・・・・・・・・・。そのことに全く気がつかないとは・・・・・。この大都芸 能の速水真澄ともあろう男が・・・。うかつだった・・・」
 あれは一体いつのことだったろう。「二人の王女」の舞台で見事に天才女優姫川亜弓と互角、いや それ以上に演技で競い合って成功を収めたマヤ。その後の仕事のオファーではまさに選り取り見取 りと言っても過言ではなかったのに、マヤは敢えて最も難しいであろう演技を要求される「忘れられ た荒野」を選んだのだ。その舞台の初日。台風で首都の交通は遮断され、自分一人しか観客のな いままに幕は上がった。忙しい自分はあの日以外その舞台を見たことはないしメッセージもその時 にしか送っていない。そのメッセージのどの部分が、「紫のバラの人」としての自分の正体を暴いてし まったのかはわからないし気にはなるもののだが今は、マヤの話のほうがもっと気になった。俺への 見方が変わった?それは一体どういうことだ?
「速水さんとして私に接してくれているときも、いつもあたしを見ていてくれたんだって」
 まるで言葉にしなかった真澄の、心の声が、その問いかけが聞こえたかのようにマヤは真っ直ぐ 彼の瞳を見つめながら静かに、話した。
「・・・・・・・・・・・ふっ。確かにきみは無茶ばかりするからな。目を離せないのは当然だろう」
 真澄の心に、あたたかなものが溢れてくる。あんなにも苦しく孤独で辛かった。誰にも分かってはも らえないと思っていた。ましてマヤには決して。だがしかし、その想いを実はマヤはちゃんと受け止め てくれていたのだ。これ以上うれしいことがあろうか。うれしい気持ちのまま、いっそ真実を、せめて 告げられるだけの真実だけでも今、告げてしまおう。
「それに、きみのそのひたむきな情熱を見ると、放っておけない気持ちにさせられるんだ・・・」
 真澄からの突然の言葉。自分の演劇にかけるひたむきさが彼の心を惹きつけていたとは今の今ま で知らなかった。だが確かに彼が自分に強い関心を寄せ、親切にしてくれていたことは十分すぎる ほどわかっている。そう、あの「青いスカーフ」のメッセージを読んだ時に気づいてしまったのだから。 「そのことに気づいたときに、自分の想いにも気づけたんです。紫織さんという、素敵な人がいる速水 さんには迷惑な話かもしれませんが・・・」
「いや。それ以上は言わないでくれ。頼む、マヤ」
 信じ難いことだが、マヤが言わんとしていることの予想が付いた。まさに信じ難い。だが真澄には 確信が持てた。間違いない。マヤがこれから言おうとしていること。止めなければ。なんとしても。
「きみにそれ以上を言われると困るんだ。わかってくれ・・・・・」
 なおも言い募ろうとするマヤを押し留めるように説得する真澄。だがあふれ出したマヤの感情の奔 流はとどまることはなかった。
「阿古夜が演じられなくなるくらい・・・・・・、・・・自分ではどうしようもないほど・・・・・・」
 大きな瞳に見る見る湧き上がり、今にも溢れ落ちそうにまでこみ上げているマヤの涙。瞬きもせず その涙の向こうから懸命に真澄を、真澄だけを見つめている。
「言わないでくれ。頼む・・・・・・・・・・・・・・。その先を言うのは男の俺の務めだ、マヤ」
 ようやく覚悟を決めた真澄。彼はまるであの梅の谷で川を挟んで魂の触れ合いを感じたあの時の ようにマヤと向き合い静かに懇願した。その真摯な態度にマヤもそれ以上の言葉を飲み込んでしま う。これから彼は、一体何を言おうとしているのか・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マヤ。君をずっと見守ってきた・・・。「紫のバラの人」として・・」
 求めていた言葉。それが真実と知っていながらも、彼の口から聞きたかった言葉。その言葉を渇望 して何度泣きながら眠ったことだろう。それが突然に今、何の予告もなく降ってきたのだ。背の高い 彼の、その唇から。もしこれが夢でないのだとしたら、奇跡としか言いようがないだろう。他には何も いらない。あなたがそれを認めてくれるのなら。今日からそれだけを恋の代わりに抱き締めて生きて いこう。マヤは悲しすぎる覚悟で、真澄の告白を受け止めていた。その言葉にはまだ、続きがあると も知らないで。
「だがこれからは一人の男として、見守ることを許してはもらえないだろうか・・・?」
 実は自分が紫のバラと援助を贈り続けてきたのだ、と言ってさえくれたら。その言葉さえもらえた ら。それ以上は望まないと思っていたマヤは真澄の言葉に耳を疑った。今の言葉は何かの聞き間違 い?確かめなければ・・・。「えっ!?・・・・・・・どういうことですか・・・?」
 震える声で精一杯、真澄に問い掛ける。そんなマヤの健気な姿に、真澄は自分の正直な気持ちを 打ち明ける決意を固めた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マヤ。きみにとっては迷惑なことかもしれない。だが、この俺に、君を想う ことだけは許してもらえまいか?」

 言ってはいけない言葉だった。想うだけでも罪だと思っていた。それでも。想わずにはいられない。 誰に許しを請えばいいの?誰がこの想いを許してくれるの?お願い、せめて想うことだけでも、想う 心を抱いて生きていくことだけでも許して・・・。
「そんな、あたしも・・・、あたしも・・・速水さんを想い続けることだけは許して欲しいって思ってまし た・・・」
 湧き上がる。溢れ出る。零れ落ちる。マヤの両頬を伝う涙たち。その美しさに胸をつかまれたの は、何も真澄だけではなかった。その場に居合わせた黒沼、水城、亜弓、月影も皆一様にマヤのひ たむきな健気な想いの結晶であるその涙の美しさに苦しいまでに胸をつかまれ、誰一人言葉を発す ることも、いや、息をすることさえもできずにいた。
「結婚するあなたに対して許されないことだってわかってても、この想いはどうすることもできないっ て・・・」
 しゃくりあげそうになる、乱れそうになるその呼吸を懸命にこらえながらも、真澄に対しての想いを 吐露することはやめられない。もう止まらない。全てを告げてしまいたい。その欲求は、今まで押さえ 込めていただけに、反動でもうマヤにさえも抑えきれなくなっていたのだ。

「...................すまない、マヤ。少し、待っていて欲しい。なんとかする。紫織さん とのことは必ず何とかするから」
 マヤの一途で強い想い。それに触れた今、もう真澄も覚悟を決めなければならないだろ。応えた い。この想いに。応えなければならない。この俺が。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・待っていて、くれないか・・・?」
 確かめるようにおずおずと尋ねる真澄。その真澄に、マヤはようやく答えを返すことができた。
「・・・・・・・・・待っていていいんですか?」
 真っ直ぐに瞳を見つめ、疑うことのない素直な言葉で問い掛ける。もう誤魔化したりしない。この瞳 を得るためならば。
「待っていてくれ。必ずきみの元に戻るから。信じて、待っていてくれ・・・・・・・・・・・・!」
「速水さん・・・・!!」
 飛び出すように駆け寄って、真澄にすがりつく。受け止める真澄はその背中をさすりながら自分で も驚くほどに優しい声でマヤをからかうのだ。
「なんだ、泣いているのか・・・?まったく君は泣き虫だな・・・」
 からかわれていることにも気が付かない。マヤはただ、互いの想いが一つだったこと、そして今、
自分に待っていて欲しいと言ってくれる彼の想いがうれしいだけだった。
「・・・・・・・・待ってます。ずっと、待ってます」

「良かったな、北島」
 沈黙を守り続けてきた人々の中、黒沼が最初に口火を切った。
「さぁ、きみは稽古に戻りたまえ。しっかり稽古して、必ず紅天女を掴めよ?」
「はい!!もう、大丈夫です!!きっと、速水さんをあっと言わせる紅天女を演じて見せます」
 黒沼の声に、今マヤが女優生命をかけて挑まなければならない課題がなんであるのかを思い出し た真澄。マヤも、心の憂いが晴れれば全力で「紅天女」に挑み、そして勝ち取る自信がわいてくるの だった。
「黒沼先生、彼女を、頼みます。きっとぼくは彼女の元に戻りますから」
 惑いのない、潔いまでの瞳で静かに黒沼を見つめる真澄の言葉に、それでも黒沼は釘を刺してし まう。それほどまでに、彼なりにマヤが大切なのだから。
「若旦那、俺はこれでも北島を気に入ってるんだ。口先だけの話では許さんからな」
「黒沼さん。俺はこう見えても、約束は守る男なんでね。安心してください」
「ああ、しっかり覚えておこう」
 黒沼の視線を真正面から受け止めると真澄はすぐさま背後に控えていた水城を振り返った。
「水城君!そんなわけだ。急に忙しくなるが。任せられるのは君しか居ない。頼むぞ」
「ええ。こんなやりがいのある仕事でしたら、いくらでもやらせていただきますわ」
 きびきびとした水城の声には、これから起きるであろう困難への挑戦に対する、どこか浮き立ったも のが感じられた。

「どうやらマヤさんにとって「魂のかたわれ」は、速水社長だったようね。あなたはわたしのライバ ル!!覚えておいてね・・・」
「亜弓さん!!あたしも負けませんよ!!」
 互いに認め合う、ただ一人のライバル同士。亜弓にとって復調したマヤは手強い相手には違いな い。だが今のままのふがいないマヤと闘って「紅天女」を勝ち得たとして、それが一体なんになろう。 互いに全身全霊で舞台に臨み、全力を出し切った上での勝利でなければ勝ったことに意味などない ではないか。そんな不完全燃焼のようなことをされたら決して許せない。
「わたくしもこれから稽古場に戻りますわ。月影先生、わたしの阿古夜見てくださいね」
「亜弓さん、あなたの阿古夜、楽しみにしていますよ」
「先生もそれまで体調を崩されないように御気をつけ下さい」
 二人のライバルとその師の絆。美しいその情景を頼もしく見つめたいた真澄。これでもう、マヤも大 丈夫だろう。
「とりあえず成功だな、秘書さん」
 3人に見蕩れている真澄を横目に黒沼がこそこそと話しかけている。
「ええ、黒沼先生のおかげですわ」
 そんな二人に気付かない真澄は大いに張り切って水城に声を掛けた。
「さぁ、水城君。社に戻るぞ!対策を練らなくてはな!」
「はい。社長。それでは、今日はこの辺で失礼いたします」
 水城を従え出口へ向かおうとして、その前にもう一度だけ振り返り挨拶をして行った。
「それでは皆さん、失礼します。ちびちゃん、頑張れよ。後で連絡するよ。じゃぁ」
「はい、速水さん。お仕事頑張って下さい」
 水城もマヤを励ますことを忘れなかった。何しろこれでまたマヤが不調にでもなったら真澄はもっと 手に負えなくなるに違いないのだから。真澄のために、ひいては自分のためにもマヤには頑張っても らわなければ。
「マヤちゃん頑張ってね」
「頑張ります!!水城さん」
 
 幸せそうに顔を輝かせるマヤを見て、ほっと胸をなでおろす月影。
「やれやれマヤもこれで阿古夜を演じることが出来そうね」
 黒沼はそんな彼女の言葉を聞き逃してはいなかった。
「ご心配をかけたようですな、月影さん。北島は・・おそらく化けますよ。幸せな恋を知って」
 その言葉には答えず、満足げな微笑を一瞬その頬に上らせると、すぐに平静を取り戻すと二人の 愛弟子たちに向かって別れを告げた。
「それでは、私も帰りますわ。マヤ、亜弓さん、頑張りなさい」
「はい、先生わたしとマヤさんの紅天女を見ていてください・・・」
「はい。先生、ありがとうございました。お体には気をつけてくださいね」
 マヤと亜弓はそれぞれに師に別れの言葉と決意の言葉を告げ、顔を見合わせる。

「北島、早速稽古に・・と言いたいところだが、今日は皆帰してしまったな」
 折角マヤの心が落ち着いてきたのだ。今までの遅れを取り戻すためにも即刻稽古を始めたい黒沼 だ。とは言え先ほど自分が全員を帰してしまったことを思い出す。それにしても。そのことがもう、随 分昔のことのように思えてしまう。たかが数時間前のことだと言うのに。
「あたしだけのシーン、稽古つけてください。黒沼先生」
 よぅし北島、いい覚悟だ。黒沼は腕が鳴るのを覚えた。
「よし、いい心がけだ。今までの分を取り返すぞ」
「はい!!お願いします!!」
 マヤの力強い返事を聞くと黒沼はふと亜弓の方を振り返り不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「姫川君。紅天女の試演は、覚悟しておいた方がいい。北島が役を掴むきっかけを得た以上、本気 でいくからな」
 だが亜弓とて負けるつもりなどないのだ。負けじと余裕の笑みで返してきた。
「黒沼先生、わたくしも負けませんから」
 そう言いつつマヤと黒沼の顔を交互に見る亜弓。その宣戦布告を頼もしく思いながら、黒沼は二人 に渇を入れるのだった。
「よし、では本当の戦いはこれからだ! 二人とも、俺が驚くような紅天女を見せてくれよ!」

 心が壊れてしまうほどの辛い辛い恋。真澄へのそんな想いが通じた喜びで、まるで水を得た魚の ように生き生きとしだしたマヤ。そんなマヤの表情に演出家としての好奇心とやる気をかき立てられ 瞳を輝かせる黒沼。ライバル二人の様子に安堵しつつも闘争心を燃やす亜弓。こうして彼らは「紅天 女」への戦いの道を再び歩み始めた。今、これからこそが、本当のスタートなのだ。
 一方の真澄と水城もまた、彼らなりの戦いへと向かって行った。ただ勝利だけを目指して。その道 のりは、マヤが歩む「紅天女」への道に勝るとも劣らない困難の連続であろう。だがこちらもやはり負 けるわけには行かないのだ。欲しても欲しても得られないと諦めていたものを手に入れるためなら ば、どんなにでも強くなって見せる。そんな覚悟を決めた真澄に従うのなら、水城にも不安はなにも ない。
 それぞれの思う道へと歩き出した彼らを、月影一人がただ、全てを超越して見守っていた。どんな 結末が待っていようとも、その行方を探し、前へ進もうと歩き出した彼らを。




<Fin>



6月のチャットで行った、なりきりチャットの小説です。

硝子さん、いつもながらの力作、ありがとうございますvv
今回は場面転換が少なく、展開もシリアス傾向だったために落としや突っ込みを入れ難かったはず なのですが、それでも「クスり」と笑わせる硝子節。素晴らしいです!!
チャットではキャラのセリフのみでストーリーが進んでいきますが、その合間の心の動きをしっかりと 書き込んで頂いたお陰で話にグッと深みが出ています。
冒頭の桜小路の件は硝子さんのオリジナルですが、狂言回しの彼が本筋に入る前のクッション、
いい前置きになっていますね♪

タイトルは私がつけてますが今回は季節感を出すのが難しく、かなり苦しい気がします(;^_^A 
話の感想については読んでいただいた皆様にお任せするとして、参加者の方々に一言お礼を言わ せていただきますね。


●kujidonさん
初めてのなりチャ参加でいきなり主役のマヤちゃん・・大変だったことと思います。お疲れ様でした! 最初は戸惑われていましたが、ラストでの速水さんとの会話の追い込みはお見事としか言いようが ありません。
ずっと隠していた想いが出口を見つけて、切々と速水さんに訴えかけるマヤちゃん。
それを目の当たりにして圧巻でした!

●硝子さん
設定が42巻以降の話ということでしたので、本当に張り倒したくなるくらいの逃げっぷりを見せてく れた速水さん。黒沼をやっていた私としましては「ドウシテヤロウカ、コノヤロウ!」と、気持ち的には ちゃぶ台をひっくり返しておりました。
のらりくらりな彼というのは硝子さんの書かれるお話では有り得ないので、とても新鮮でしたわ。
最後にはきちんと告白をしてくれてホッとしました〜。

●瑠衣さん
キーマンの一人、水城さん。私にとっては瑠衣さんとの会話が一番緊張しました。
水城さんと黒沼先生の間で密談があっても、瑠衣さんと私の間では当然のことながら打ち合わせは ありませんでしたから。
ですが、花嫁のブーケの花を尋ねたときに間髪入れずに「紫のバラ」と答えてくださって、その時に は「瑠衣さん、ありがとーーーっっ」と心の中で絶叫しました。
セリフ回しもいかにも水城さんらしくて良かったですvv

●moeさん
今回のお話は主役+仕掛け人以外のキャラは入りにくい展開でしたが、亜弓さんは大健闘をしてく れました!話の方向が変わったときにはしっかりとセリフを入れてくれて、一本調子になりがちな
ストーリーに起伏をもたらしてくれましたv
次には主役級などいかがですか、moeさん? 拝見したいですわぁぁvv

●堕天使さん
「月影先生永久欠番」の堕天使さん。口数こそ少ないものの、一言一言に重みがあります!
何もかもを見通したような「ふふっ」という笑みが見えるかのようでしたわ。
不死鳥のように何度も蘇る無敵の先生は、なりチャにはかかせません。
これからもよろしくですっ(≧▽≦)