Day Dream 1




愛するひとに、抱きしめられる夢を見た。
目が覚めても、まだその感覚が残っているような気がした。
何だか、とても切ない。
マヤは自分の体を、ぎゅっと抱きしめた。
自然に瞳が潤む。
切ないが、胸が何故かざわつく夢。
(速水さん・・・) 愛しいその名を、繰り返し心の中で呟く。
こんな胸が痛む夢は、母親が亡くなった直後に見て以来だ。
しばらく布団でぼんやりしていたが、ふっと溜息をつき、のろのろと起き上がる。
まだ覚醒しきっていない頭を左右にぶるんと振り、眠気を覚ます。
(ダメ、ダメ、こんなことじゃ。今日は稽古も休みだし、麗は地方公演でいない。
久し振りに部屋の大掃除でもしてみようかな)
マヤは顔を洗い、着替えると、朝食作りに取り掛かった。
 

しかし目覚めの決意はどこへやら、マヤは部屋で、呆けたようにぼーっとしていた。
時折、溜息をつき、ただただ夢の余韻に浸るのみだった。
「マヤちゃ〜ん、電話だよ」
大家が階下から声を掛ける。その大声にふと我に返り、慌てて部屋を飛び出した。
さすが安普請のアパート。多分、その声は電話の相手にも筒抜けだろう。
「ありがとうごさいます」
マヤは受話器を受け取り、大家に礼を言う。
「マヤちゃんも、スミに置けないね。男の人だったよ。確か、ハヤミさんだとか・・・」
速水と聞き、彼女は慌てて受話器を耳に押し当てる。心臓は早鐘のように鳴り響いていた。
「あっ・・・あのぅ、お待たせしました」
電話の相手は少しの沈黙の後、マヤに話しかける。
『速水だ・・・すまない、突然電話して』
いつもの涼やかな声ではあったが、何故かその声には妙な緊張感があった。
「い・・・いえ、あの、何か御用ですか?」
高鳴る胸を押さえつつ、マヤは彼に聞く。
『いや・・・試演も近付いているし、君の仕上がり具合は、どうかと思ってね。今日は稽古も休みだ ろ?もし、予定がなければ・・・会えないか?話を聞いてみたい』
真澄の突然の申し出に、彼女の頭はパニックに陥る。
気の利いた言葉の一つも、頭に浮かばない。
しかし彼に会えるという、こんな機会を逃したくなかった。
「わかりました・・・」
そう答えるだけで、精一杯だった。
『一時間後に迎えに行く。それでいいか?』
「は・・・い」
『それじゃ、後で・・・』
短く用件だけを告げる電話は、慌ただしく切られた。
ツーツーと内耳に届く機械音を聞きながら、事の成り行きにマヤはただ呆然としていた。
 

受話器を置いた真澄は、大変な商談相手との電話の後のように、肩で息をついた。
昨夜、夢を見た。
マヤを抱きしめる夢だった。
今まで幾度もそんな夢を見てきたが、感触までリアルな、こんな夢は初めてだ。
彼女の温かさ、柔らかさ、今もこの体から消えなかった。
想いがつのり、たまらなく心が揺さぶられる。
会いたくて、会いたくて、我慢が出来なくなった。
声を聞くだけでもと思い電話を掛け、だめで元々と誘ってみた。
返事は、イエス。
今日は朝イチ会議も終わり、後は書類とにらめっこの一日だ。
仕事の遅れなどマヤと会った後、いくらでも取り戻してやる。
真澄はとりあえず、急ぎの書類にだけ目を通し、スーツの上着を羽織ると駐車場に急いだ。
 

マヤは、約束の時間の30分も前から、玄関で待っていた。
どうにも落ち着かず、そして不安にもなってくる。
本当に来てくれるのだろうか?
まさか、からかわれているのでは・・・いいえ、速水さんに限って・・・
そんな彼女の心配も、真澄の運転する車が目の前に止まり払拭された。
彼がにこやかに、助手席のドアを開けた。
「無理を言ってすまなかった。乗ってくれ」
マヤは、おずおずと車に乗り込む。
「お昼はまだなんだろう?食事に行こうか?何かリクエストは?」
「え・・・っと、特にはありません。速水さんの食べたいものでいいですよ」
マヤは緊張からか胸がいっぱいで、とても食事のことまで頭が回らない。
「それじゃ、パスタの美味しいイタリアンレストランがある。そこにしようか。
女の子にも人気があるらしいぞ」
肩の凝らない場所じゃなさそうで、マヤはほっとする。
自分を気遣ってくれる真澄の選択に、自然に頬が緩む。
「行こうか」 
真澄はアクセルを踏むと、ゆるやかに車を発進させた。
 

目的のレストランには、駐車場がなかった。
近くのパーキングに車を止め、ふたりは目的地まで歩いた。
風が心地よく吹き抜け、マヤの髪を弄ぶ。
乱れた彼女の髪を、真澄は黙って直してやる。
マヤはそっと瞳を閉じ、その感触に身を委ねた。
触れ合う部分だけが、体温を感じようもないのに、何故か熱かった。
階段を上るとその先には、真澄の指定したレストランがある。
ふたりは並んで、階段を上っていく。
目的のレストランが目に入り、あと一歩というその刹那、マヤは足元がぐらつくのを感じた。
階段を踏み外したマヤは、体勢を立て直す暇(いとま)もなかった。
彼女の体がふわっと宙に浮く。
「マヤ!!」
真澄は慌ててマヤに手を伸ばし、その華奢な左腕を掴む。
だが、時すでに遅し。
マヤの体をキャッチするのに成功した真澄だったが、彼女と一緒に自分も宙を舞う。
「速水さん!!ダメ!!」
マヤの右手が虚空を彷徨うのが、目の端に映った。
その手は必死に、彼を押し戻そうとしているようだった。
真澄はマヤの体を、ぎゅっと抱きしめる。いざとなったら、自分が下敷きになればいい。
彼女だけは、助けなければ・・・
そんな思いは、ほんの一瞬、そう一瞬だった。
真澄の脳裏を駆け巡る思考は遮断され、ふたりの目の前は真っ暗になった。
 

どれだけの時間が経ったのか。気が付けばふたりは、レストランの階下で抱き合っていた。
道行く人々が、好奇の目を向けていた。その視線に気付き、ふたりは慌てて離れる。
「チビちゃん、怪我はないか?」
「はっ、速水さんこそ、大丈夫ですか?」
確かにふたりは階段から落ちたはず、なのにまったくの無傷。
どこにも痛みすら感じない。
まるで狐につままれたようとは、こういうことかもしれない。
「とにかく、何事もなくてよかった。今度は、ちゃんとエスコートするよ」
真澄はマヤに手を差し出し、彼女は俯きながらも、黙ってそれに従う。
一歩、一歩、慎重に階段を上がる。
そして件(くだん)のレストランの前に到着した。
ふたりは目と目を合わせ、ほっと胸を撫で下ろすと、ドアを開け中に入った。
 

真澄の言う通り、ここのパスタは絶品だった。
マヤにとって馴染みの薄いオリーブオイルも、上手くパスタに絡み、その仕上がりは絶妙だ。
美味しい、美味しいを連発しながら、彼女は従来の旺盛な食欲を、取り戻していた。
そんなマヤを真澄は、目を細めて見つめていた。
食欲も満たされ、真澄が話しかけようとした、その時。
「あの〜速水さん。気のせいだったらいいんですけど、なんだか、あたしたち見られてません?」
真澄が周りに視線を泳がせると、なるほど、何人かがこちらをチラチラと見ていた。
視線はふたりに釘付け、といった人間もいる。どれも若い女性がほとんどだった。
「きっと、速水さんがステキだからですよ」
マヤがぼそっと呟く。
「まさか、そんなことあるはずない。それにあれは俺というより、俺と君だぞ。見ているのは・・・」
どうして注目を浴びているのか、分からない。
しかし、こんな視線の中では、落ち着いて話も出来ない。
真澄は彼女に出ようと促し、席を立った。
「ごちそうさまでした」
レジで勘定をする真澄の側で、マヤは礼を言い、深々と頭を下げた。
「いいんだ。これくらいで恐縮しないでくれ」
真澄は苦笑を浮かべる。
「あの〜っ、北島マヤさんですよね?」
ひとりの女性が、おずおずとマヤに近付いてきた。
「はい・・・そうですけど?」
マヤは、きょとんとした顔で、女性を見つめた。
「わあ、やっぱり、そうだったんですねぇ!!私、あなたのファンなんです。紅天女、もう何度も観まし た。とっても素晴らしかった。」
女性は、うっとりとした表情で、マヤを見つめる。
「ご結婚されて、しばらくは休養を取られるそうですけど、これからも頑張ってください。応援してま す」
女性はマヤに握手を求めると、そそくさと席に戻って行った。
マヤは、ぽかんとその様子を見ていた。
「なん・・・だったんでしょうか?」
「さあ・・・」 真澄も不思議そうな顔をした。
店を出てパーキングまで歩く、その道すがらでも視線を感じる。
(いったい、なんだっていうの?)
ふたりは不可解な周りの様子に、どまどいを隠せない。
パーキングで車に乗り込もうとした刹那、また声を掛けられる。
今度は中年の女性だった。
「北島マヤさんですね?」
「は・・・はい、そうです」
「紅天女の舞台を観て以来、あなたのファンになりましたの。、本当によかった。あんなに感動したの は初めてですよ。復帰されたら、また観に行きますね」
「あ・・・あのぅ」
マヤは狼狽して、上手く言葉にならない。
そんなマヤと、そして隣の真澄を交互に見つめる中年女性は、柔らかく微笑んだ。
「ご主人とご一緒なんですね?本当にステキな方、お幸せに」
足早に去っていく中年女性に、益々訳が分からなくなった。
「・・・いったい、どういうことなんだ?」
顔を見合わせるが、疑問符だらけで整理がつかない。
「誰かと・・・勘違いされているのかしら・・・?」
「しかし候補とはいえ、紅天女に北島マヤと言えば、君しかいないだろう」
「たしかに、そうですけど・・・」
からかわれているとしか思えないが、しかし一体、何の為に?
その時、真澄の携帯電話が鳴った。
ディスプレーには、大都グループ本社の番号が出ている。
(なんだ。どうしたんだ?)
驚く彼の耳には、秘書の水城の声が飛び込む。
『会長、奥様とご一緒のところ申し訳ありません。至急、ご指示を仰ぎたい案件がございまして・・・』
「奥様?誰のことだ?それに会長とは?」
水城が、電話の向こうで吹き出す。
『ご冗談はおやめくださいまし。真澄さま以外の、どなたが会長なのですか?お近くにいらっしゃるの ではありませんの?奥様のマヤさまが』
「冗談を言ってるのは、君の方だろ?俺とマヤが結婚などしているわけないだろ」
断片的な電話の会話に、側にいるマヤまでが蒼白になる。
「とにかく、今からそっちに帰る。話はその時に」
乱暴に電話を切る。何が何だか分からない。
「チビちゃん、悪いがこれから社に戻る。君は・・・」
真澄は一瞬考えた後、マヤの手を握り車に乗り込む。
「君も・・・一緒に来てくれ」
マヤは返事も出来ず、戸惑う瞳を揺らし、ただ頷くだけだった。
 

真澄は大都芸能の駐車場に、車を入れようとした。
しかし社長専用の駐車スペースには、すでに車が止まっていた。
仕方がなく、来客用のそれに止める。
ふたりは無言で、社長室に向かった。
真澄にとって会社とは、大都芸能以外にない。
廊下をすれ違う社員達は、真澄の姿を見ると一様に驚き、深々とお辞儀をする。
(まるで俺がここにいるのが、おかしいかのようだ)
もはや疑問など通り越し、ただ妙な胸騒ぎだけを感じる。
「会長!!いかがなされました?本日はこちらに、ご用事でも?」
いつもの秘書課の面々が、慌てて真澄とマヤを迎え入れた。
「ただいま社長をお呼びします。こちらの応接室にどうぞ。さあ奥様も」
秘書のひとりが、案内の為に踵を返す。
「君達は・・・どうかしているんじゃないのか?ここの社長は俺だ。冗談もいい加減にしないか」
秘書達は皆、顔を見合わせ眉をひそめる。
「何をおっしゃっているのですか?・・・会長はご結婚と同時に、大都芸能の社長を退き、大都グルー プの会長に就任されたではありませんか。」
「結婚だと。誰とだ?俺はまだ、結婚などしていない」
「会長・・・奥様とご一緒ではありませんか・・・」
「・・・・・・?」
秘書達の視線が、一斉に真澄の隣のマヤに、注がれた。
「あっ・・・あたしですか?」
マヤは目を白黒させて、真澄を窺う。
常識の範囲外の出来事に、彼も言葉がない。
「いったい、なんの騒ぎだね?」
双方のやりとりが耳に入ったのか、社長室から覗く人影。
それは真澄の、よく見知った顔。彼の腹心の部下のひとり、大迫だった。
彼は真澄の姿が目に入った瞬間、子供のように満面の笑みを湛(たた)え、彼らに駆け寄った。
「これは会長、お久し振りです。君達、どうしてこんなところで・・・早く応接室にお通ししないか。
奥様までお待たせして」
「申し訳ありません、社長。ただ今、すぐに・・・」
秘書達は、大迫に一礼する。
「・・・いや・・・社長室でいい・・・なんだか懐かしくてね。少し、寄ってみただけだ・・・」
真澄は表情を堅くし、大迫を見つめる。
彼は非常に優秀な部下で、真澄の信頼も厚かった。
実直で、頑固なほどに仕事に打ち込む部分も含め、役にも立たない重役連中より、よっぽど頼りにし ていた。
将来、義父の後を継ぎ、大都グループの会長になる時が来たなら、彼を大都芸能の社長に推挙しよ うかとも考えていた。
昨今の経済事情を考慮すれば、年功序列も、ただダラダラと積み重ねたキャリアも、すべて無意味。 異例の大抜擢であっても、真澄は会社の為、名より実を取りたいと思っていた。
その大迫が大都芸能の社長として、今、真澄の目の前にいる。
「そうですか。私も嬉しいですよ。こうして仕事抜きで訪ねてくださるとは・・・それでは・・・」
大迫はドアを開け、ふたりを招き入れようとした。
「すまないが、ちょっと彼女に話があってね。先に入って待っていてくれ。君達も持ち場に戻ってくれ。 騒がせて悪かった。マヤ・・・来てくれ」
真澄は彼女の手を引き、フロアの隅に連れて行った。
彼は彼女の肩に両手を置き、体を前のめりにすると、彼女の目線に自分の目線を合わせた。
「チビちゃん・・・よく聞いてくれ。俺自身も訳が分からないが、ここでは俺は社長ではない、大都グル ープの会長らしい。そして・・・」
真澄は言いよどむ。
「どうやら、俺と君は・・・」
「あたし・・・速水さんの・・・奥さんなんですか?」
歯切れの悪い彼の言葉を補うように、マヤは言う。
「・・・そうらしいな・・・とにかく、これから相手の言葉に合わせて、話していく。だから君も俺に合わせ てくれ。ただ、無理なら・・・横に座っているだけでいい・・・」
「どうするんですか?」
マヤは、不安でたまらなかった。
前代未聞の出来事に、頭はもうパニック状態で、まともに考えられない。
ただ真澄が側にいてくれる。それだけが頼りだった。
「わからん・・・だが、今の状況を少しでも掴まなければ・・・それだけだ・・・」
彼はマヤを伴い、再び社長室に向かった。
 

促され、社長室の応接セットに、腰を下ろす。
ふたりの前には、各々コーヒーと紅茶が用意された。
真澄の最も好む、ブルーマウンテン。
コーヒーを口にし、煙草に火を点けると、少し落ち着いた。
真澄は誘導尋問を巧みに駆使し、大迫から情報を引き出していく。
話から、真澄とマヤは三ヶ月前に結婚し、彼女は一年間の休養に入っている。
マヤは見事に紅天女を獲得し、今は当然、大都の所属になっている。
真澄は結婚と同時に大都グループの会長に就任し、大迫が彼の後を引き継いだ。
これらはすべて、ここに来るまでに聞きかじったことと同じだった。
「会長に大都芸能の社長の任を賜った時、正直驚き、迷いました。しかし、私を押してくださった
会長の信任にお応えしようと、私なりに努力いたしました。なにより、会長のお心が嬉しかった」
大迫は、嘘のつけるような男ではない。
その証拠に、その目は熱く、まっすぐ真澄を見つめていた。
ふたりは、もはや言葉もない。
これは質の悪い冗談や、イタズラなどではない。
マヤは知らないうちに、真澄のスーツの袖口を掴んでいた。
「奥様の紅天女・・・素晴らしかった・・・幾多の舞台を観てきましたが、あれほどまでに感動したのは 生まれて初めてでした。これから私がお守りしていくのかと思うと、身が引き締まるようでした」
黙って大迫の話を聞いていた真澄だったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「・・・ありがとう・・・君になら安心して、妻・・・を任せられる」
妻という真澄の言葉にマヤは驚くが、やがて頬を染め俯く。
愛する真澄の妻と呼ばれる。
まるで夢のような現実。いや・・・本当は夢なのかもしれない。
「忙しいのに、すまなかった。これからも頼む」
真澄は短く大迫に告げると、社長室を出ようとした。
「マヤ?」
当然、後からついてくると思っていた彼女が、大迫の前に歩み寄る。
「あ・・・あの・・・ぅ」
おずおずと、話しかける。
「なんでしょう。奥様」
「あの・・・これからも、しゅ・・・主人共々、よろしくお願いします・・・」
ぺこりと頭を下げる。マヤにとっては、精一杯の社交辞令なのだろう。
真澄の胸に、新鮮な感動がよぎる。
彼も大迫に軽く会釈をすると、マヤの手を引き、大都芸能を後にした。
 

「速水さん・・・あたしのアパートに、連れて行ってもらえませんか・・・」
車に乗り込んだふたりの沈黙を破ったのは、マヤの一言だった。
「やっぱりこんな事、嘘としか思えない。確かめたい・・・あたしの本当の居場所を・・・」
「わかった・・・行こう・・・」
真澄は頷くと、車をマヤのアパートに向かって発進させた。
彼は隣に座る彼女の様子が気掛かりで、チラチラと視線を送った。
車窓の景色が変わる様を、マヤはじっと見つめていた。
その目はぼんやりと、空虚感を漂わせているようにも思えた。
その彼女が、いきなり真澄の腕を掴んだ。
「はっ、速水さん。こんなところに、あんな大きなスーパー、ありましたか?」
マヤの指差す方向に、確かに大型スーパーがあった。
「いや・・・あそこは・・・マンションだった・・・と思う」
「そうですよね?あたし、さっきからずっと窓の外を見てたんですけど、なんかおかしいんです。
ケーキ屋さんがあるはずの場所に本屋さんが・・・今度は本屋さんの所には普通の家があって・・・
あたしの勘違いかな、とも思ったんですけど・・・変です・・・」
「実は・・・俺もおかしいなと思っていた・・・」
真澄も運転しながら、曲がり角にこんな店があったか?ここはファミレスがあったはず、などと疑問が 幾度も頭をよぎっていた。
「やっぱり・・・変です・・・」
マヤは一言漏らし、視線を車窓から外すと俯いた。
その顔色は真っ青だった。
お互い戦慄にも似た感情が湧き上がるのを、ただぐっと抑えるしかなかった。
 

マヤのアパートの近くに車を止めようとした瞬間、周囲の騒然とした様子が目に入る。
アパートの周りには足場が組まれ、大勢の作業員が慌ただしく動いていた。
「これ・・・どういうこと?」
彼女は、ただおろおろするだけだった。
真澄も突然のこの状況に、言葉をなくす。
「あらぁ、マヤちゃん。久し振りだね。元気だったかい?」
声をかけたのは、大家だった。
久し振りもなにも、ほんの数時間前に会ったばかりなのに。
「大家さん、これは・・・どういうことですか?」
マヤはアパートと大家の顔を、交互に見る。
「何言ってんだい。古いから取り壊して、マンションを建てるって言ってたじゃないかい。
今日は懐かしくて来てくれたんだろ?こっちが旦那さんかい?ステキなひとじゃないか。
幸せなんだろ?本当によかったね」
彼女は大家の言葉には答えず、真澄を見上げる。
彼はアパートを凝視し、身動ぎ(みじろぎ)もしない。
マヤは、はっと思い出したように大家を振り向く。
「麗・・・そう、麗はどこにいったんです?」
「麗ちゃんかい。何言ってんだか、あの子は別のマンションに引っ越していったじゃないかい。
マヤちゃん、あんただって引越しの手伝いに来ただろうに」
大家は不思議そうな顔付きで、彼女を見ている。
「マンション?どこですか?教えて下さい」
マヤは、今にも泣き出しそうだった。
そんな様子に気付いた真澄が、彼女をフォローする。
「いえ、それが青木君の住所を彼女が失くしてしまって・・・大家さん、ご存知ありませんか?」
「そうだったのかい。分かった。ちょっと待っといで」
しばらくの後、大家がメモを持って彼らの元に戻ってきた。
「これだよ。電話は携帯だって言ってた。ここに一緒に書いてある。今度は失くすんじゃないよ」
大家はマヤの手に、メモをしっかりと握らす。
「本当に幸せになっておくれよ・・・また遊びに来ておくれ・・・」
「ありがとうございます。大家さんこそ、お元気で・・・」
呆然自失で言葉の出ないマヤに代わり、真澄が答える。
ふたりは踵を返すと、車に向かう。
真澄は足元もおぼつかないマヤを、抱きかかえるように歩いた。
彼女は不安を打ち消すように、真澄にしがみつく。
その感触に彼は、こんなとんでもない状況であっても心が揺さぶられた。
車にマヤを乗せると、自らも乗り込む。
シートに身を委ねると、深く溜息をついた。
「あたし・・・帰るところが、なくなってしまった・・・」
マヤは涙をポロポロ流す。
真澄は儚げなその風情に、胸が締め付けられた。
「大丈夫だ・・・俺がいるよ。心配するな・・・俺がいる・・・」
彼はマヤをその腕に抱きしめる。
そして、夢の続きを見ようとするように、そっと目を閉じた。
「は・・・やみさん・・・」
マヤは真澄の胸で泣き崩れた。
彼はそっと、彼女の髪を撫でてやる。
「俺が・・・君を守るよ・・・」
マヤは彼の腕の中で、何度も、何度も頷いた。
 

ひとしきり泣いたマヤは、恥ずかしそうに真澄の胸から顔を上げた。
涙で濡れそぼった顔を見て、彼は黙ってハンカチを差し出す。
しゃくりあげながら返事も出来ない彼女は、真澄同様、黙ってそれを受け取り涙を拭った。
「青木君に、電話しなくていいのか?」
真澄は胸ポケットから、携帯電話を差し出す。
彼女は首を横に振る。
「いいです・・・なんだか怖い・・・景色が微妙にでも変わってしまったように、麗も今までの麗なの か・・・まるで、あたし達だけが、違った世界に放り込まれたようで・・・怖いんです・・・」
そう、そうかもしれない。ここは自分達が生きてきた世界ではない、他の世界なのかもしれない。
そして、マヤは真澄と結婚をしていて、彼だけのもので、他の誰のものでもない。
(俺の理想とする世界だな・・・まるで)
こんな都合のいい世界は、夢以外ありえない。
(朝の夢の続きなのかもしれない。それでも俺は・・・)
真澄が漫然と考えていると、彼の携帯が鳴った。
『会長、いかがなされました。社にお戻りになるとお聞きしていたのに、なかなかお戻りにならないの で、心配いたしました』
水城の声に、そうか自分にとっての会社とは、今は大都の本社だったと気付く。
「すまない。少し寄り道していてね。すぐに戻る」
電話を切ると、マヤを振り返る。
「マヤ・・・大都の本社に行くよ。君もついておいで」
いきなり名前で呼ばれ、胸がどきりとした。
「は・・・はい・・・」
「君は俺の奥さんだから・・・そのように振舞ってほしい。そうだな・・・芝居だな。
君の演技力なら問題ないだろう」
「あたしに出来るでしょうか?本当に、速水さんの奥さん役なんて・・・」
「大丈夫だ。なんなら、あなたと呼んでくれてもいいし、腕を組んでくれてもいい。アドリブだが、君に 任せるよ」
真澄は心の底から喜びが湧き上がるのを、押さえ切れなかった。
もし、ここが別世界であっても、多少状況が変わっていても、そんな事は些細なことだった。
実際、彼は自分の地位も上がっていたし、問題はなかった。
それよりも何よりも、マヤが彼の傍にいる。
真澄の妻として、この世界でなら生きていってくれるかもしれない。
彼の人生で、最も欲するものはマヤであり、彼女は彼のすべてだった。
そのマヤが手に入るかもしれない状況に、真澄は賭けてみたくなった。
幸か不幸か、マヤは帰る場所を失くした。彼女は心情的に、彼しか頼るものはいない。
そう、もうこれが夢でも現実でも、どうでもよかった。
やがては悪夢に飲み込まれるだけの、真澄だったのだ。
結婚という、マヤとは果てしなく遠ざかる牢獄に繋がれる身だった。
真澄は、ここで夢魔に食われて、永遠の狭間にその身を投じても構わないと思った。
そして、もしもこれが現実だとしたら、マヤとの関係をやり直したいとも思った。
誰よりも現実的だと考えていた自分の発想に、苦笑が浮かぶ。
所詮は自分も、ただの弱い男だったのだ。
隣に座る、何よりも愛しい、彼の存在理由であるマヤ。
(今度こそ、マヤを傷つけない。大事にしていきたい)
マヤの揺れる瞳に自分を映し出すように、彼女を覗き込む。
「俺に・・・ついてきてほしい。頼む・・・君が必要なんだ」
彼女は、真澄の言葉の真意も分からず、ただあいまいに頷いた。
その瞳には、真剣だが慈愛に満ちた真澄の姿が映っていた。