Day Dream 2




大都グループの本社は、都心の一等地にあった。
交通アクセスも良く、利便のいい所だった。
大都芸能の数倍はあろうかという巨大なビル。
雰囲気も重々しく、マヤは見ているだけで思わずたじろぐ。
スーツ姿の男女が、忙しげに出入りする。
芸能社と違い、華やかさはどこにもなく、ある種の威厳すら感じられた。
マヤは自分のあまりにもラフな格好に気付き、ただうろたえる。
「速水さん・・・あたし、やっぱり無理かも・・・誰が見ても速水さんとは合わない・・・」
「気にするな。君は俺の奥さんなんだ。誰にも文句など言わせない」
「だけど・・・」
「今度、ここに来る時は、思い切りドレスアップさせてやる」
そう軽やかに言い放つ真澄は、何故か嬉しそうな笑みを浮かべていた。
そして真澄は、半ば強引にマヤの手を引いて、本社ビルの玄関に向かった。
社員達は真澄とマヤの姿を見かける度に、道を譲り、深く頭を下げる。
「会長、お帰りでしたか。これは、奥様もご一緒に・・・」
女性社員のひとりが、声をかける。
真澄は彼女に見覚えがあった。
確か、本社の秘書課の人間だった。
ということは、真澄の秘書のひとりかもしれない。
彼女に促され、真澄とマヤは役員専用のエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターは最上階、会長の執務室に向かって緩やかに上昇していった。
 

「会長、お帰りなさいませ。奥様もお元気そうで、お久し振りです」
出迎えた水城が、うやうやしく頭を下げる。
「さっきは、すまなかった。マヤと喧嘩してしまってね。ついあんな事を言ってしまった」
「そうですわ。いきなり俺は結婚していない、なんて・・・驚きましたわ」
「本当に悪かった。俺は部屋に戻る。コーヒーを持って来てくれ。マヤは何がいい?
やはり紅茶か?それとも、何か他のものがいいか?」
「あ・・・あたしは何でも・・・いいです」
「それじゃ、紅茶にしようか・・・レモンよりミルクだな。それから悪いが水城君、君が持って来てくれ ないか」
「かしこまりました」
真澄は言うだけ言うと、マヤの肩を抱き、さっさと部屋に入っていった。
マヤがアドリブを利かせる必要などなく、見事に彼は周りを煙に巻く。
(社長より役者の方が合ってるかも・・・カッコイイしね・・・)
彼女はぼんやりとそんなことを考えながら、ソファーに座っていた。
何度も行った大都芸能の社長室と比べ、内装も、調度品も数段、格が上だった。
広く豪華な会長の執務室。
真澄との差を、益々思い知らされる。
こんな自分が真澄の奥さんだとは・・・都合のいい夢のような気がする。
だけど・・・あの夢の続き・・・だとしても、いいじゃない。
今だけは、このひとは自分のもの。他の誰のものでもない。
彼の姿を目で追い、幸せな気持ちがこみ上げる。
真澄はデスクで、様々な書類を物色していた。
大都グループの内情は今まで散々学んできたし、頭の中には知識としては入っている。
しかし実践ともなると、知識だけでは補えないものが多々ある。
(とにかく、ここでの仕事を一刻も早く、覚えなければ・・・)
真澄はもう、ここが自分達の生きてきた世界と違ってもいいと思っていた。
マヤさえ傍にいてくれれば、彼はどんな事でも出来るような気がした。
勿論、彼女にもこの世界で生きていくように、促さなければならないが。
「速水さん・・・これから、どうするんですか?」
マヤがふいに、真澄に声をかける。
彼女も心では、彼の側にいたいという思いもあったが、やはり不安は隠せない。
マヤの問いかけに真澄の動きが、ふと止まる。
ちらと彼女に視線を走らせたが、すぐに持っている書類にそれを戻した。
そして、その書類をばらばらと繰りながら、独り言のように呟いた。
「俺達は今、何処に住んでいるんだろうな」
「えっ・・・?」
「新居だよ。君のアパートはあんな事になってるし、俺にしても結婚後は、何処に暮らしているのか 分からない。速水の屋敷なのか、それとも、別の場所か・・・とにかく落ち着く所はそこしかないだろ。 当然、君にも一緒に行ってもらうが」
「あ・・・あたしもですか?」
マヤの顔が、見る間に赤くなっていく。
「俺達は・・・一応夫婦ということだし、一緒に暮らすのが自然だと思うがね。大丈夫だよ、別に何もし ないから。ただの同居だ。君には、指一本触れないよ」
マヤを安心させようと掛けた真澄の言葉だったが、それは彼女に、安心より失望を与えた。
女として見てくれていない。
当たり前の事なのに、胸が痛む。
浮かれていた自分が、バカみたいに思えてくる。
「それで・・・どうやって調べるんですか?」
胸の内の失望を隠すように、マヤは尋ねる。
「水城君に聞くさ。大都芸能で探った時と、同じようにね」
その直後、ドアがノックされ、水城が入室する。
「失礼します」
流暢な動きをその身で表現しながら、マヤの傍らにヒールを鳴らしながら近付く水城。
そんな彼女を観察するかのように、マヤはその動きを一心に見つめ続けた。
どこをどう見ても水城に間違いない。自分が今まで知っている水城と、寸分たがうことない。
しかし・・・
(この女性は本当は水城さんじゃないんだ・・・あたしの知ってる水城さんとは違う・・・)
一抹の淋しさが、マヤの胸に去来した。どうしてこんなことになってしまったのか。
「奥様?何か?」
コーヒーカップをテーブルに置きながら、水城は問いかける。
「な・・・何でもありません。ところでその奥様って止めて下さい。あたしは奥様なんかじゃありませ ん」
慌てて水城の言葉を否定した。
「マヤ・・・」 たしなめるような真澄の声。
「いい加減に慣れるんだ。君はこれからもずっと、そう呼ばれ続けるんだぞ」
「速水さん・・・」
「その速水さんも、どうにかならないか?君も速水さんなんだろ?」
あまりにも堂に入った彼の演技に、マヤはただ驚くばかりだった。
(あたしなんか、どうしていいか分からないのに・・・順応性があるんだ・・・)
彼女はしきりに感心する。それに女優である自分より自然で、アドリブも利いていた。
「と・・・とにかく、今まで通りでいいじゃないですか。なんか淋しいし・・・」
「それでは、マヤさんとお呼びしてもよろしいですか?」
水城は少しほっとしたように、頬を緩める。
「ふ・・・普段通りの話し方でいいです」
「それは・・・そういうわけには参りません。あなたは会長の奥様。私達とは一線を画する方です」
自身を律するような水城の物言い。
再びその表情は、今まで見たことがない程、堅く、厳しいものに変わっていった。
「まあ、いいじゃないか。水城君、君も座りたまえ。少し話さないか?マヤもそれを望んでいる」
「・・・ですが・・・」 水城は躊躇するが、真澄は気にも留めない。
「とにかく、座りたまえ」
最初は戸惑っていた水城だったが、話し始めると途端に表情が変わっていった。
サングラスの奥の瞳の色も穏やかになる。
彼女もふたりとの関係の激変に、ただ対処の仕方が分からなかっただけなのかもしれない。
そんな水城と話すうちに、マヤは自分の知る彼女となんら変わらないと悟った。
ただ、自分と真澄が“夫婦”だという奇異な関係や、風景の佇まいなどの違いはあっても
もしかして本来の世界と、殆ど変わらないのかもしれない。
それは隣に腰を下ろし、会話に参加していた真澄も感じていた。
「失念しておりましたわ。マヤさん、青木様からお電話がありました。お宅の鍵をお忘れになられたと か。午前中、彼女のマンションをお尋ねになられたのでしょう?マヤさんも携帯電話をお持ちになった ほうがよろしいかと・・・ここにお電話されるのを、躊躇されていたみたいで。緊張されていましたわ」
伝言を忘れていた水城は恐縮しながらも、ここぞとばかりにマヤにアドバイスをする。
これもマヤの知っている水城を彷彿とさせ、そして彼女の控えめな気配りに心が温まった。
「マヤ、電話をしてあげなさい」
真澄はマヤに携帯電話を渡す。
「今度、遊びに来るように誘ってみたらどうだ?俺に気兼ねはいらない」
彼はそっと彼女に目配せする。
マヤは受け取った携帯電話を、手の中で握り締めていたが、やがて上目遣いに彼を見つめた。
「・・・速水さん・・・使い方、分かりません・・・」
マヤの物言いに、真澄は思わず吹き出す。
「君もやはり、携帯くらい持ったほうがいいな。今時、使い方すら分からないとは・・・」
「どうせあたしは世間に疎いですよ」
「いや、悪かった。どれメモを貸してごらん。電話番号を押すだろう。あとはこの開始ボタンを、受話器 の上がっている絵柄のボタンを押す。話し終わったら終了ボタンを押すんだ」
子供に諭すように説明する彼に、マヤは身を乗り出す。
「分かったか?」
真澄の顔が思いもよらず、近くにあった。
お互いの息遣いまでもが聞こえる位の距離に気付き、はっと体を離す。
「はっ、はい・・・分かりました」
慌てて自分を取り繕うが、高鳴る胸の鼓動はどうにも押さえ切れない。
やがて胸の鼓動が少しづつ収まるのを確認し、メモの番号を押し始めた。
当初、麗に連絡を取るのを躊躇していたマヤだったが、ここで水城と出会い、彼女と話をし、少し安 心もした。きっと麗も、あたしが知る彼女と変わりはしないのだろう・・・と。
そう、いつも自分を心配し、庇護してくれた、あの優しい姉のような存在。
それはたとえ、ここが奇妙な世界であっても変わらないのでは・・・と無条件に感じられた。
息を大きく吸い込み、決心した彼女は電話を掛けた。
『もしもし?』 数回の呼び出し音の後、麗の元気な声が耳に届く。
妙に懐かしく聞こえる。マヤは息を整え、携帯をぎゅと握り締める。
「あ・・・あたし。マヤよ」
『なんだ、マヤか。鍵のこと、聞いてくれたのかい?あんた家に入れないんじゃないか?
まったくドジなんだから・・・』
いつもと変わらぬ麗の声。心底ほっとする。
「ゴメンね。え・・・っと今から取りに行っていい?」
『いいけど。夕方から出掛けるからね、早くしとくれよ』
「わかった。すぐ行く。あ・・・あと、速水さんが、う、家にも遊びにいらっしゃいって・・・」
言い慣れぬ言葉に、口が上手く回らない。
『あの“セレッソコート代官山”だろ?一度、遊びに行ってるじゃないか。確かに最上階で眺めは抜群 だけど、なんか場違いで入りにくいね。まあ、速水会長のお誘いなら仕方ないけどね』
「速水さん。“セレッソコート代官山”って知ってますか?そこの最上階ですって」
マヤはこっそり真澄に耳打ちする。
「ああ・・・知っている」
それもそのはず。そのマンションは建築部門もある大都の持ち物で、紫織との結婚話が進むなか新 居の候補として一時、名前が挙がったマンションである。
最上階はペントハウスで、誰からの干渉も入らないので新婚にはもってこいだった。
「探らずとも、答が勝手に向うからやってきたな」
「会長?いかがなされました?」
含み笑いを漏らす真澄に、水城は怪訝な顔をした。
「いや、なんでもない」
彼はそんな水城に脇目も振らず、今度はマヤに微笑みかけた。
「それじゃ、青木君に鍵を貰いに行こう。水城君、これからの俺のスケジュールはどうなっている?」 「会長は本日お休みになっております。お忘れでしたか?」
「あ・・・ああっ、そうだったな・・・それでは電話の件だけでも・・・」
真澄はデスクに移動する。
途端に水城が、バツの悪そうな顔をした。
「申し訳ありません・・・それは会長がお戻りになる直前に、こちらで勝手に処理させていただきまし た。・・・急ぎでしたので。ですから・・・」
「それじゃ、帰ってもいいわけか?」
「はい。本当に申し訳ありませんでした。来て頂く必要がなくなりましたので、お電話でお伝えしよう かとも思ったのですが・・・」
真澄はマヤを振り返り、そっと左手を差し出す。
「と、いうことで鍵を取りに行って帰ろうか?それとも何処かに行こうか?」
包み込むようにマヤを見つめる瞳に、彼女ならずとも誰しも胸がときめくに違いない。
それほど愛情深い、慈愛に満ちた瞳だった。
抗うことなど、出来ようがない。
マヤは操られるように、ふらふらと真澄のその手を取った。
 

麗からマンションの鍵を受け取ると、ふたりは話もそこそこに引き上げた。
もう頼ることなど出来ようもない、マヤの親友であり、姉のような存在である彼女。
水城同様、差異がないと感じる麗ではあったが、状況的に異なる人生を歩み始めていると実感させ られた。
ここでのマヤは真澄の妻であり、微妙ではあるが歩む道も徐々に異なるものとなっていた。
関係さえも明白に変わってしまった二人。もう・・・頼ることは出来ない。
「速水会長。いえ、速水さん、マヤを大事にしてやって下さいよ。私にとって妹みたいなものなんです から・・・」
最後にそんな麗の言葉に見送られ、自宅である“セレッソコート代官山”に向かった。
時刻は夜の七時になろうとしていた。
途中、夕食をとって帰宅しようという真澄の提案に、マヤはただ、「何もいらない。どこでもいいから、 ゆっくりと座りたい。横になりたい」と言った。
虚ろな表情で車の助手席に体を埋める。
今日一日でよほど疲れたのだろう。
「分かった。とにかく行こうか・・・」
そんな彼女を労わるように、車を緩やかに発進させた。
「大丈夫か?」
マヤの腰を支えるようにし、真澄は彼女を自宅であるマンションに連れ帰った。
玄関ドアの右斜め上に、(速水真澄・マヤ)のネームプレートが。
それを目を細め、少し嬉しそうに見つめる。
とりあえず、疲れてぐったりしたマヤをソファーに座らせる。
30畳はあろうかというリビングは、真澄好みの家具で統一されていた。
ソファーの端っこには、この部屋には少しばかり不似合いな、ぬいぐるみが幾つか置いてある。
壁には、ところどころにパネルが飾ってあり、それらは全てマヤの舞台写真だった。
チェストの上の写真立てを、何気なく手に取ると真澄は魅入られたように立ち尽くす。
「何ですか?それ」
マヤは緩慢ではあるが何とか体を起こし、真澄の側まで近付く。
手渡された写真立て、そこにはタキシード姿の真澄が写っていた。
隣には、純白のウェディングドレス姿のマヤ。
ふたりとも満面の笑みを浮かべ、この上なく幸せそうな顔をしていた。
「なんだか・・・変ですね。仮装パーティーですか?」
「どう見ても、結婚写真だと思うがね」
「じゃぁ、どうしてこのふたりは結婚・・・したんでしょうね。よっぽどの事情があったんでしょうか?」
「チビちゃん・・・よほどの事情って・・・素直に愛し合ったからとは思えないのか?」
真澄は苦笑いを噛みしめる。
「だって・・・そっちのほうが、余計おかしい」
叶うはずのない想いをいだくマヤにとって、写真の中の彼女が羨ましく、妬ましい。
そっと写真立てを、元の位置に直す。
「この世界での彼と彼女は、俺達とは違うのだろう」
「この・・・世界?」
「そうだ・・・君も気付いているだろう?どう考えても、ここは俺達が過ごしてきた場所ではない・・・」
「違う世界・・・ですか?」
「そう言ったほうが、正しいかもしれん」
真澄は煙草に火を点け、深く息を吸い込む。
「どうして、こんなことになったんでしょうか?」
彼は思考を巡らす。
「考えられるとしたら、あのレストランの階段だな。あそこから落ちて、その後・・・全てが変わった。
あの階下には、ここに繋がるエアーポケットのようなものがあったのかもしれない」
「どうしたら、元に戻れるんでしょうか?それに、ここの世界のふたりは、いったいどこに・・・?」
「さあ・・・もしかしたら俺達が、この世界に来たことによって、押し出されるようにまた別の世界に飛 ばされたのかもしれない・・・あくまでも推測だが。」
マヤの顔には、ありありと不安の色が浮かんでいた。
いくら真澄の側にいたいと願っていても、こんな異質な世界で暮らす自信は、やはりなかった。
「もう一度、階段から落ちれば、戻れるのかしら?」
「たまたまここへの道が開いたのかもしれないし・・・今度落ちたら大ケガか、ヘタすれば死ぬかもし れない」
その言葉に、思ったより高いあの階段を思い出す。下はコンクリート、落ちろと言われても当然誰しも 躊躇するだろうし、それよりも無理だと思うだろう。
マヤはその場で、へたり込んでしまった。
真澄はそんな彼女の傍らに膝をつき、肩に手を置く。
「しばらくはこのままの状態かもしれない。しかし・・・考えてみよう・・・元に戻れるように・・・その間 は君にとって不愉快かもしれんが、俺の側にいてもらう」
「・・・速水さん・・・今日は優しいんですね・・・」
マヤは呆けたような目で彼を見る。
「約束しただろう?君を守ると・・・これからも君が不愉快になるようなことはしない・・・言わないよ。 誓う・・・」
真澄は、儚い風情の彼女を、衝動的に抱きしめたくなる。
それをぐっと押さえ、再びソファーに座らせた。
「やはり、何か食べたほうがいい。少し待ってろ」
キッチンに向かうと、あちこちを物色する。
見ると、コンロの鍋にはカレーが出来ていた。
冷蔵庫の中身を確認すると、真澄はサラダの材料をチョイスする。
「速水さん。あたし、やります」
気付くと、マヤが側まで来ていた。
「どうやら、この家の今夜のメニューはカレーライスのようだ。きっとこっちのチビちゃんが作ったんだろ う」
「そうかも・・・こっちでもやっぱり不器用なんだ、あたし。カレーなんて誰でも出来るもの」
「結婚して三ヶ月なんだろう?まだまだこれからなんだよ。最初から上手くいくわけないさ」
真澄は言いながらレタスを千切り、冷水に浸していく。
キュウリの次はトマトを切っていく。見事な包丁さばきで、大きさや厚みも均一だった。
マヤは彼のあまりの手際の良さに、ただ呆気にとられていた。
10分も経たずダイニングテーブルには、カレーライスとサラダが並べられていた。
「速水さんって、お料理も出来たんですね・・・」
真澄と向かい合って椅子に座ると、開口一番そう呟く。
結局、マヤが手伝ったことは食器をテーブルに並べ、水を運んだだけだった。
「大げさだな。ただ切って盛り付けただけだろう?」
「だって手際もいいし、あたしだったらお野菜切るのに、まだ手間取っていますよ」
カレーライスを口に運びながら、マヤは首をすくめる。
「結構美味しいですよ。なんか食欲が出てきました」
「そうか・・・それはよかった。まだおかわりもあるぞ」
元気が出てきたのか、マヤは食欲を取り戻したようだ。
カレーライスなどこうした食卓で食べたのは、いったいいつ以来だろうか。
普通の家庭の、普通の味。
真澄の胸に懐かしさが去来する。
マヤと共にそういった家庭を築いていけたなら、どんなに幸せだろうかと改めて実感する。
食器を洗う彼女の後姿に、たとえこれが夢でもいい、永遠に覚めないでくれと願うばかりだった。
 

コーヒーを飲みながらリビングで寛ぐふたりだが、やはり真澄も深い疲れを感じていた。
こんなあり得ない前代未聞な一日に、もう思考能力さえ奪われそうであった。
まるでジェットコースターに、何度も何度も乗ったような一日だとしみじみ思う。
元気を取り戻したマヤは、テレビ台の中をあれこれと物色中だった。
「速水さん、結婚式のビデオなんかありますよ」
「かけてみるか?」
真澄は彼女の側まで行き、デッキにビデオを入れ再生ボタンを押す。
40型はあろうかというプラズマテレビの前で、ふたりは腰を下ろし画面を見つめる。
厳かなパイプオルガンの音色が流れる中、真澄とマヤの姿が映し出される。
写真と同じいでたちのふたり、牧師の結婚の決意を促す誓いの言葉。
各々が力強く、それに答える。
お互いの左薬指にリングを通す。
マヤは緊張のせいか、なかなか上手く通らないようだ。
真澄がマヤのヴェールをそっとあげ、誓いのキスを交わす。
その瞬間、テレビの前のふたりは羞恥から目を背ける。
ちょうど家族で観ていたテレビに、男女の絡みが映し出された時の気まずさに似ている。
披露宴は思ったより質素だった。
月影や一角獣のメンバー、亜弓にハミル氏の姿も見える。
どうやら真澄の仕事関係の人間は招待していないようだ。
ほとんど身内だけというせいか、会場には温かな雰囲気が流れていた。
ビデオの真澄は、今まで見せたこともないような笑顔を皆に振りまいている。
マヤは笑顔と泣き顔を交互に繰り返し、水城に涙を拭ってもらっていた。
宴たけなわ、会場はほとんど立食パーティーと化していた。
周りの人間がふたりのキスをねだると、真澄は躊躇することなくマヤに深く口付ける。
彼女は真っ赤になって彼にくってかかる。
それをひらりとかわし、再び口付けた。
その様子を見ていた黒沼が、すでに酔っているのだろう腹を抱えて笑っている。
始終、穏やかな雰囲気に包まれた、いい披露宴だった。
ビデオが終わり画面が砂嵐になっても、ふたりは身動ぎもしなかった。
ただビデオの中のもうひとりの自分が、羨ましくて堪らなかった。
「シャワーでも浴びるか?寝る準備もしなければな・・・」
張り付いたような空気を払拭するように、真澄が呟く。
その場を立つ真澄の後姿を、マヤはぼんやりと見送っていた。
 

マンションの間取りは、4LDKだった。
一番大きな部屋は寝室らしい。各々一部屋づつ自室にし、後はエキストラルームのようだ。
それぞれの部屋を覗いてみた。
真澄の部屋は大きなデスクと本棚が象徴的で、きちんと整理整頓されていた。
一方、マヤの部屋は家具だけは立派だが、どこか雑然としている。
「なんか・・・性格が出てたりして・・・」
彼女は顔を赤らめ、恥じ入った。
寝室に至っては、立ち入ることが躊躇された。
ただやたらに大きなベッドが目の端に映ったが、生々しい気がし正視できない。
ここを使うのは、ふたりとも躊躇われた。
「君はエキストラルームのベッドを使えばいい」
「えっ、速水さんは・・・?」
「俺はリビングのソファーを使う」
「そんな・・・それじゃ、あたしがソファーで寝ます」
「女の子をそんな所で寝かせられるわけない。俺のことはいいから、先にシャワーを使いなさい。
今日は疲れただろう、早く休んだほうがいい・・・」
「はい・・・」
マヤは自室から適当に着替えを見繕い、浴室に向かった。
そんな彼女を見送り、真澄は浅く溜息をついた。
 

真澄もマヤも床に就いたが、どうにも眠れない。
こんな常識はずれな一日は、当然だが経験などない。
自分達の行く末は勿論気掛かりだが、今は同じ屋根の下で眠る想い人が心の大半を占める。
真澄は同じ時間を共有できる現実に心躍るが、それでも切なさは否めない。
これから過ごす日々の中で、どこまで自分を抑えられるか自信がなかった。
このたった半日ですら、幾度も彼女を抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
想いが通じ合って一緒にいるわけではない。
あくまで暫定的な処置でしかない。
もし戻れれば今まで通りのふたりになるだけ、戻れない場合もマヤが嫌がれば別に暮らすか、戸籍 上も自由にしてやらなければならない。
だが本当は、今日のようにこれからも一緒に暮らしていきたい。
心も体も、全てを自分のものにしたい。
ゆっくりと時間をかけて、受け入れてもらえればいいとも思っていた。
しかし長年の抑え続けた想いは、もう臨界点にまで達していた。
いつその華奢な体を抱きしめ、その唇を蹂躙するか分からない。
真澄は果てることのない欲望を振り切り、瞳を閉じた。
マヤもマヤで暗闇で目を凝らし、天井を見つめていた。
ビデオに映し出された情景が頭をよぎる。
あのふたりは、どうして結婚したのだろうか。
自分は真澄に魅かれ激しく愛情を抱いているが、彼が自分を愛し、ましてや結婚したいと思うなど想 像すらつかない。
(あたしはそんな魅力的な女の子じゃない・・・いつまでたっても子供だし、速水さんだってこんな子 供、相手になんかするわけないわ)
胸の中を渦巻く、得体の知れない何かに押しつぶされそうになる。
苦しいほどの彼への想いは、時折自分の全てをダメにしてしまうような気がする。
この想いが成就するなどありえない。
もしそんな現実がつきつけられたら、世界が音もなく崩れ去ってしまう・・・
この世界にいる不安定な自分さながらに、それは容易に想像がつく。
(出来るものなら、ずっと一緒に居られたら・・・形だけでもいい、速水さんの側にいたい・・・)
ふっと意識が暗闇に吸い取られ、マヤはいつしか深い眠りについていた。