Day Dream 5




定刻に出社した真澄は、秘書の水城を呼んだ。
「例のパーティー、予定通りに進めてくれて結構だ。細かい指示は、いちいち出さない。
今まで幾つものパーティーを仕切ってきた君だ、任すよ。ただしマヤは別だ。これから君に彼女を
仕込んでもらうが、その日の成果は逐一、報告してくれ」
「かしこまりました、お任せ下さい。これで名実ともにマヤさんは、真澄さまの奥様になられるので
すね。私、腕によりをかけてマヤさんを一流のレディに仕上げてみせますわ」
水城の笑顔が心からの祝福だと、本心から喜んでくれているのだと、改めて気付いた。
そう、ここにも俺たちを応援してくれていた人間がいた。
きっと多くの人間の協力があり、ふたりは夫婦になれたのだろう。
「早速、スケジュールを作成いたしますわ。マヤさんにもお覚悟を、とお伝え下さい」
「お手柔らかに頼むよ」
真澄は微笑むと、退室する水城の背を見送った。
 

翌日から、水城の猛特訓が始まった。
なにしろマヤは、芝居のセリフは信じられないスピードで覚える超記憶術の持ち主。
なのに大都の社史は、まったく覚えられない。
「マヤさん、なにも全て覚えろというわけではないのよ。概略だけでいいの」
水城はマヤが会長夫人なのも忘れて、以前の彼女に接するような口調になっていた。
あまりの物覚えの悪さに呆れ果て、愛想もつきかけた。
多少、頭にきていたかもしれない。
「もし誰かに質問されて簡単な事も答えられなかったら、恥をかくのはあなただけではないのよ。
真澄さまの恥でもあるの」
しゅんとなるマヤに、水城は彼女が高校生だった頃を思い出す。
「ごめんなさい・・・きついことを言って」
「いいえ、水城さん。あたし頑張ります」
水城の指導は時には大都グループ本社で、時にはふたりの新居でと、延々行われた。
「当日、あなたにはドレスを着てもらうわ。ヒールのある靴を履き、ホールを歩く。慣れてないのなら、
慣れてもらうしかない。これから毎日、外出時は勿論、ご自宅でも練習していただきます」
マヤのぎこちない歩き方に、水城は溜息をついた。
「多少のパーティートークは、頭に入れておいたほうがいいわ。まあ、最終手段として、ただ
にこやかに笑うだけってのもあるけど」
「そんな強張った顔でダンスしてはだめよ。簡単なステップだけ教えるから、とにかくそれだけでもマ スターして頂戴」
水城との特訓が終わった後、マヤは大概ぐったりとし、マンションのソファーでうたた寝してしまう。
真澄が帰ってきても気付かず、彼に抱きかかえられてベッドに運ばれたのも一度や二度ではない。
そんな彼女を労わるように彼は呟く。
「本当はこんな無理をさせたくない。俺はあるがままの君が好きなんだから」
マヤの頬にキスをひとつ落とすと、彼女を起こさないように寝室を出た。
 

ふと目が覚めたマヤは自分がベッドで眠っていることに気付き、慌てて飛び起きた。
「またやっちゃったぁ、速水さん帰ってるんだ」
リビングに駆け込むと、ソファーでブランデーを飲んでいる真澄の姿が目に入る。
「ご、ごめんなさい。あたし、眠ってしまって・・・本当にごめんなさい」
消え入りそうな彼女の声に、彼は微笑む。
「それより大丈夫か?疲れてるんだろ?そうだ、何か食べるか?」
最近、真澄も心得たもので、帰宅時には夕食の材料か出来合い物を買って帰る。
「ううん、今日ね、テーブルマナーについて勉強したの。ケータリングで美味しいものいっぱい食べた し大丈夫。それに少し眠ったら疲れもとれたし。速水さんは?何か作りましょうか?」
「俺は済ませた。それより・・・こっちに来ないか?」
真澄の手招きに導かれ、彼女はソファーに座る。
途端に彼の温かい腕の中に、ふわっと包まれた。
「君には無理させるな。すまない・・・」
彼女の髪にキスをし、甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「ううん、無理なんかしてません。あたしはあなたの傍にいられるだけで・・・幸せ・・・」
マヤの言葉が妙にくすっぐたい。
ゆっくり唇を重ねると、彼女は恥じらい、頬を赤く染めた。
「本当に、君はかわいいな」
ぎゅっと抱きしめると、彼女の鼓動まで聞こえてきそうだ。
「まるで夢の続きみたいです・・・」
マヤがぽつりと呟く。
「夢の続き?」
「あの日、速水さんとここに来た日、その前の夜に夢を見たんです。速水さんに抱きしめられる夢。
とても切なくて、だってあなたの腕は他のひとを抱く腕だもの・・・だからこうしているのが、夢の続き のようで・・・本当は、夢なのかもしれない・・・」
「同じだ・・・」
「速水さん?」
彼女は不思議そうに彼を見る。
「俺もあの日の前日、君を抱きしめる夢を見た。温かささえ残っているリアルな夢に、心騒いだ。
だから君を呼び出し、ここに迷い込み、今、君と一緒に居る」
不可思議な偶然。だがこれは必然だったと、やっと分かった。
そう、運命。
運命と呼ぶに相応しい。
「夢じゃない、現実だ。こうして君を抱きしめる俺も、君も。・・・それを確かめようか?」
真澄はマヤを抱き上げると、寝室に向かう。
初めてここに来た日、躊躇し踏み入ることが出来なかった、あの寝室に。
真澄はマヤの、マヤは真澄の、お互いの肌の温もりを確認すると、彼女は目を閉じた。
やがて彼女の口から甘い吐息が漏れる。
何度も肌を重ねるうちに、彼女の反応も日々変わっていった。
艶やかなその表情はすでに大人の女で、彼の体を熱くさせるに充分だった。
ひとしきり愛し合ったふたりは深い眠りにつく。
婚約披露パーティーは、もう目前にまで迫っていた。
 

「会長、マヤさんはほとんど仕上がりましたわ。きっとご満足いただけると思います」
水城はサングラス越しに真澄の様子を窺う。
彼の表情には満足そうな笑みが浮かぶ。
「そうか、それはよかった。ところでドレスは・・・ああっ、当日までのお楽しみだったな」
「そちらも仕上がりましたわ。最近マヤさん、ぐっと大人っぽくなりましたでしょ?ドレスもそのイメージ に合わせて、清楚さと艶やかさを取り入れましたのよ」
「肌の露出は少ないだろうな。困るんだよ、マヤは紅天女なんだ。あんまり派手なのは」
真澄はもっともらしく“紅天女”と口にするが、本音では他の男に素肌をさらしてほしくないのだろう。
そんな彼がおかしくて、水城がくすりと笑う。
「なにがおかしい?」
自分の心が見透かされたのか、そんな彼女の態度に彼は眉間にしわを寄せる。
「いいえ、なんでもありません。マヤさんのレッスンは本日で終わりです。後は前日までエステに
通っていただきます。ああっ、そうですわ、これからマヤさんに疲れさせることはなさらないで下さい。 寝不足はお肌の大敵ですので・・・」
最後に思い切り含みを持たせた言葉を残し、水城は退室した。
その一言に真澄は耳まで赤くなった。
 

水城の忠告を受け入れたわけではないが、真澄はその夜からマヤをベッドに誘わなくなった。
彼女はその日が近付くにつれ無口になり、緊張からか眠りも浅いようだ。
彼が出来ることは、彼女の体を一晩中抱きしめてやることだけだった。
「速水さん・・・あたし、心配なんです。上手くやれなかったら、どうしよう・・・」
「大丈夫だ。君はあるがままの君でいれば、それでいい・・・」
「でも・・・」
「それより、君にお願いがあるんだ」
マヤの髪を撫でつつ、真澄は優しく囁く。
「もうそろそろ名前で呼んでほしいんだが」
「名前って・・・もしかして、真澄さん?」
彼女は頬を赤くした。
「そうだよ、そうしてくれたら嬉しいな」
「だけど、ずっと速水さんって呼んでいたから・・・恥ずかしいな」
「それじゃ、練習すればいい。眠るまで俺の名前を呼んでくれ」
「わかりました・・・それじゃ、真澄さん」
「ん?なんだ?」
「やだ、ちゃちゃを入れないで、真剣なんだから」
「わるかった」
真澄は思わず吹き出す。そんな彼を、じとっと睨む。
「もう一度、真澄さん、真澄さん、真澄さん・・・」
やがて呼び声が間遠になり、完全に沈黙した。
(眠ったか・・・)
そんな彼女の頬に軽くキスをする。
純粋で汚れのないマヤは、真澄にとって宝物だった。
もう彼女のいない毎日など、考えられない。
かつてその想いに心かき乱され、手を伸ばしても届かない幻を追いかけ、ひとり傷付いた。
そんな日々を過ごしていたのが、今は遠く感じる。
「マヤ、君を全力で守るよ。何もいらない・・・君さえいれば」
彼女の温かさに安らぎを感じ、彼は瞳をゆっくりと閉じた。
夜は、緩やかに更けていく。
 

その日は晴れ渡り、青空が広がっていた。
雲ひとつないその空を、真澄とマヤはマンションのベランダから見上げる。
「いよいよだな。頼みましたよ、奥様」
「お任せ下さい。旦那様」
ふたりは微笑み合うと、軽く唇を重ねた。出陣前に互いの士気を高める儀式と同じく。
その直後、インターホンが鳴る。
迎えの車が到着したようだ。
「それじゃ、行こうか」 「はい」
空の青さを瞳に焼き付けながら、彼に促された彼女は強い決意の下、強く頷いた。
 
 
 
各界の著名人、政財界のお偉方の面々が徐々にホールに集まる。
マヤはすでにドレスを身に着け、メイクも施されていた。
髪を高くアップにし、幼さの残る面差しに大人の表情を兼ね備えた、そのアンバランスさ。
しかしゆったりとした仕草や、ロングドレスの自然な裾捌きはまさに淑女。
彼女は一分の隙もないレディとなった。
白いタキシードを着た真澄が、彼女の控え室に姿を現す。
彼はしばらく言葉が出なかった。
そんな彼に気付き、彼女から声をかけた。
「真澄さん、どう?」
彼の息を呑む音がする。
「・・・綺麗だ・・・マヤ・・・君は本当に美しくなった・・・」
賛美の言葉に彼女はにっこりと微笑む。
「ありがとう、そろそろ時間ね。エスコートしてくださる?」
「それではお手をどうぞ、奥様」
真澄に手を取られ、マヤはパーティー会場へと歩を進める。
顎をつんと前に突き出し、胸を張って堂々と歩く。
それは今までの彼女では有り得ないことだった。
真澄の妻だという自覚が、徐々に芽生えてきた証拠である。
白いタキシード姿の真澄に、薄紫色のマーメイドラインのドレス姿のマヤ。
彼がずっと贈り続けた、紫のバラの花束を彷彿とさせる華やかさだった。
「ドレスの色は、やはり君の希望か?」
彼の問いに、彼女はただ微笑んだ。
 

パーティー会場は、異常なまでの熱気に包まれていた。
大都グループの会長は実業界でも1.2を争う若き実力者、速水真澄。
その夫人は女優としての地位を固めつつある、今をときめく北島マヤ。
勿論、大都との繋がりを求める者、今まで以上の関係を結ぼうと考える者。
様々な、自分達の欲望の為に集った者達。
そういった人間が大多数だが、あの速水真澄が損得抜きで選んだ妻。
その夫人を一目近くで見たいと、好奇心に駆られる者もいた。
マヤは常に微笑を絶やさず、会話もそつなくこなしていた。
招待客の間を、舞い踊る蝶の如くひらひらと移動して行く。
彼女を仕込んだ水城でさえ、その成長ぶりには目を見張った。
マヤは真澄の妻として立派に振る舞っていた。
招待客の中には以前の彼女を知る者も大勢いたが、いずれもその変貌ぶりに驚きを隠せない。
彼女は輝くばかりに美しかった。
そこはかとなく漂う色香は、初々しさの残る面差しとの相乗効果で、その場にいる全ての人間に鮮 烈な印象を与えた。
そんなマヤを、殊更愛しげに見つめる真澄。
彼も今までの印象を、がらっと変えていた。
柔和な顔付きに、温かさの加わった眼差し。
陰で紅天女がらみの政略結婚だと囁いていた人間も、認めざるを得ない。
ふたりの結婚が愛情に基づくものだと。
そんな彼らの側に、酔ったひとりの男が近付いた。
真澄は心の中で舌打ちした。
大都芸能の競合相手のひとつである芸能社、その社長であった。
今まで真澄には、何度も煮え湯を飲まされ続けたその男。
何処かのパーティーで会った時も、ねちっこく厭味を言い続けた。
有能とは言えない男は、立ち上げる部門がことごとく失敗か、ぱっとしない結果に終わっている。
反面彼と年端も変わらず、同じ二代目社長である真澄は業績を上げ、業界での地位を固めている。
挙句、大都グループの総帥にまで就任した。
お坊ちゃま育ちの男には、それが耐えられない屈辱だったようだ。
そういった様々な理由から、男は真澄を激しく敵視していた。
招待客リストから外すことも考えたが、主だった芸能社を招待している手前、業界でも五本の指に入 る芸能社の社長である男を、無視する訳にはいかなかった。
また前社長とは浅からぬ縁があった。
真澄の義父、英介が大都芸能を立ち上げ、軌道に乗せていく過程で、多くの芸能社を汚いやり方で 潰していった。(英介はそれを淘汰と呼んでいたが)
その時、互いに手を組み、ライバル社潰しに協力し合ったのが、男の父の前社長だった。
(頼むから騒ぎだけは起こしてくれるな)
祈るような真澄の願い。
それよりもマヤが傷付く言葉を掛けるのではないかと、そのほうが気掛かりだった。
「これは速水会長。本日はおめでとうございます。ほう、こちらが噂の奥方、北島マヤさんですか」
男は舐め回すような視線を、マヤの全身の隅々にまで這わす。
その不躾な視線だけで、真澄は怒りに我を忘れそうになった。
男は尚も言葉を続けた。
「大都芸能の社長から、大都グループの会長に就任されたのには、こんなカラクリがあったのです ね。いったい速水会長は、どちらを娶られたのですか?北島マヤさん?それとも紅天女ですか?
前会長の悲願だった紅天女。それを手中にしたのが会長という名のご褒美ですか?いやぁ、まった く羨ましい限りですな」
男の狡猾な笑みに、真澄の怒りは限界に達していた。
顔色を変え、男に掴みかかろうとした、その刹那、彼を制したのはマヤの微笑みだった。
(大丈夫。ここはあたしに任せて・・・)
その強き光を湛えた瞳が、すんでのところで真澄の中の熱を奪った。
真澄からその男に視線を移したマヤは、やはり穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ご挨拶が遅れました。わたくし、速水の妻のマヤでございます。どうぞお見知りおきを・・・」
その堂々とした姿は周りを圧巻し、有無を言わせぬ迫力があった。
小柄な彼女が、誰よりも大きく見えた。
「わたくしは紅天女の初演で、ある事を悟りましたの・・・」
何の前振りもなく、いきなり話し始めたマヤに、周りの視線が一斉に集まった。
「まるで雷に打たれたような・・・全身を“光”が貫いて・・・」
優雅に身振りを交えながら、彼女は言葉を続けた。
「そのとき、悟りました。天地一切の万物とわたくしは、同じものであると・・・」
思いを馳せるようなマヤの眼差し。





「風と、火と、水と、土と、わたくしは同じものだと・・・山、川、森、海、またそこに生きる一切のもの、
太陽、月、星々、宇宙を含む一切の万物が、わたくしと同じものであると・・・」
マヤのドレスの裾が、ふわりと舞う。
「あれは、奇跡の一瞬、そして永遠の一瞬。“生命”は万物に宿り、永遠を旅する・・・と」
煌く瞳が虚空を泳ぐ。
「誕生も死も”生命”の変化にすぎず、永遠なるもの、大いなる意志のもとに産みだされ、すべてが
生命宇宙の中にあり、等しく生かされています・・・"個”は"全体”であり“全体”はまた“個”に等し い・・・」
微笑むその女性は、果たして北島マヤか、或いは天女か・・・
「そう・・・“宇宙”即、我なり・・・」
紅天女の舞台を彷彿とさせる語りに、周りの者は息を呑む。
「そうですね、あれは”真理”というものかもしれません。それを悟った瞬間、わたくしの中から、わた くしの“紅天女”が産まれました・・・」
言葉を区切ると、彼女はにっこりと笑う。
「ですから、夫が、速水が結婚したのは、北島マヤであり、紅天女なのです・・・わたくしと紅天女は
等しいものなのですから・・・」
その瞬間、一斉に拍手と歓声が沸き上がる。
男はいたたまれず、逃げるようにその場を離れた。
喝采を浴び続けるマヤは、ことのほか美しかった。
少し離れた場所から、英介が満足そうな笑みを浮かべている。
真澄は感極まり、思わずマヤを抱きしめていた。
この日の結婚披露パーティーは、まさしくマヤが主役だった。


「しかし驚いたな、君のあのセリフには」
自宅マンションに戻った真澄とマヤは、リビングで寛いでいた。
マヤの疲れを癒すように、肩を抱き、その艶やかな黒髪を撫でていた。
「もしかして“紅天女”についてのこと?」
「そうだよ。本来なら、まだ試演も済ませていない君なのに、もう紅天女を掴んでいたなんてな」
彼の言葉に、彼女はくすくす笑い出す。
「あれね、月影先生の言葉なの。あたしと亜弓さんに、紅天女を掴んだ時のことを話してくださって。
ただ単に、それを使わせていただいただけなのよ」
「そうか・・・だが立派だった。立派に俺の奥さんしてたぞ」
「でも演技入っていたのよ。と言うより、100%演技だったんだけど・・・」
「わかってた」
「やっぱり?さすが真澄さんね」
ふたりは、しばらく互いの表情を楽しみ、微笑み合う。
やがてどちらからともなく、重なる唇。
潤んだ瞳で見つめられ、真澄は年甲斐もなくどきどきする。
マヤより、うんと年上のはずなのに、彼女にはまったく敵わない。
しかしそんな彼女に脱帽する自分が、滑稽だが好ましく感じる。
「でも、ここではあたしは紅天女なんだから・・・真澄さんと生きていく為にも、紅天女を掴みたい。
一刻も早く・・・」
「焦る必要はない。君は、君らしく。それが一番、大切だと思うがな」
「うん・・・わかった・・・」
正真正銘、自分の妻となったマヤが、今更ながらにこんなに愛しい。
“真澄さん”と名前で呼ばれる度に、幸せとはこんなものかと実感した。
彼女の耳に唇を寄せながら、そっと囁く。
「明日は俺も休みを取った・・・ふたりの思い出の、あの場所で食事をしないか?」
「もしかして、あのレストラン?」
「そうだ・・・」
マヤは、はにかむように微笑み、彼の腕に飛び込む。
「真澄さん!!大好き!!大好きよ」
その身をすっかり真澄に預けた彼女に、彼の体が熱くなる。
「マヤ・・・君を・・・抱きたい・・・」
マヤは恍惚とした表情を浮かべ、後は無言で真澄に体を任せた。
彼は彼女を軽々と抱き上げると、寝室に連れ去った。
闇夜が、ふたりの姿をそっと隠し、やがてもっと深い夜を連れてきた。
 

翌日は前夜の疲れからか、ふたり共すっかり寝坊をしてしまった。
「それは・・・?」
身支度を整えたマヤに、真澄はふいに声を掛ける。
「憶えている?これってあの日に着ていた服よ。まだ三ヶ月しか経ってないのに、随分昔みたい・・・
懐かしい気分になって、つい着ちゃった」
あの運命の日より、幾分大人びた風情のマヤに、彼は心奪われる。
「そうだな・・・まだ三ヶ月なんだな、あの始まりの日から・・・俺もあの日のスーツにしようか?今日は 君と思い出に浸りたい」
真澄はマヤの頬に両手を添える。
「マヤ・・・これからは今までの何倍も、何十倍もの時間を一緒に過ごす・・・約束してくれ、俺とずっと 生きていくと・・・」
「もちろんよ。あたしの帰り着く場所は、あなたの腕の中だけなんだから・・・」
マヤは真澄の手に、そっと自分の手を重ねる。
「これから、思い出をいっぱい作りたい。あたしの傍にはあなたが、あなたの傍にはあたしが居るの。 そしていつか、あなたの子供を産みたい・・・そして、おじいちゃん、おばあちゃんになるまで、ずっと
一緒に生きていくの・・・」
「マヤ・・・」
「ねっ、ステキでしょ?」
軽くウインクするマヤ。
「ああ、そうだな。俺の幸せは君がくれる、君の幸せは・・・俺が与える」
「ふふっ、じゃ行きましょ」
ふたりはさり気なく腕を組み、件(くだん)のレストランへと向かう為、マンションを後にした。
 

そのレストランは、あの日のまま、そこにあった。
階下から、それを見つめる。
もしマヤが階段を踏み外さなければ、もしこのレストランを選ばなければ、もしあの日真澄がマヤを誘 わなければ、もしあんな夢を見なければ・・・
もしもの方程式。
そして幾つもの過程を経て、今彼らはここにいる。
ひとつでも欠ければ、ふたりの愛は成就しえなかった可能性もある。
運命という名の必然。
マヤは階段を見上げ、複雑な顔をしていた。
「あれから・・・この場所を訪ねたことがあったんじゃないか?」
もしかして彼女は、まだ心のどこかで戻りたがっているのでは・・・
そんな怖れから、彼女に声を掛ける。
「いいえ・・・最初はもちろん帰りたかったけど、このまま真澄さんの側に居られるならと・・・そう思うよ うになってからは思い出しもしなかった」
「そうか・・・俺はあの日から、もう戻れなくてもいいと思っていたから。君と同じだ、すっかり忘れてい た」
マヤはそっと腕を真澄の腕に絡める。
「それじゃ、お店に行こう。あたし、お腹ペコペコよ」
「俺もだ」
にこやかに、ふたりは階段を上がる。
一歩、一歩、踏みしめるように。
最後の一段、またもやその刹那!!
マヤは足元が、ぐにゃりと歪む感覚に襲われた。
(何故・・・!?落ちる?)
考える暇(いとま)もなく、マヤの体は虚空へと放たれた。
「マヤーー!!」
彼女の腕には、真澄の手がしっかりと絡みついていた。
共々、宙を舞う。
引き離されないように、より強く互いの体を引き寄せあう。
その一瞬後、目の前が真っ暗になった。
あの日と同じ、暗闇が彼らの感覚を吸い込んだ。
 

しばしの暗転、そして眩い光。
感覚が元に戻ると同時に、階下で互いの温もりを確認する。
「マヤ・・・無事だったか」
「真澄さん・・・あたし・・・どうしたんだろう。前みたいに階段を踏み外したわけじゃないわ。
急に足元が揺らいだみたいになって・・・」
「あの日と同じにか?」
彼は思い立ったように、携帯で何処かに電話をする。
「俺だ、速水だ。何か変わったことはないか?」
『社長、社を出られてから、まだそんなに経ってませんわ。もし何か火急の用件がございましたら、
ご連絡いたしますのに』
秘書の水城が、苦笑気味に答えた。
「・・・そうだな・・・すまない」
『ああ、そういえば・・・実は紫織さまからお電話がありまして、結婚式の打ち合わせの日時の確認
ということで・・・変更はお聞きしていませんので、大丈夫ですとお答えしておきましたが』
よろしかったでしょうか?という水城の声も、もう真澄の耳には入らない。
黙って電話を切ると、青ざめた顔でマヤを見る。
「今・・・大都芸能に掛けた。俺は社長で・・・紫織さんから結婚式の打ち合わせは、いつかと・・・」
後は言葉にならない。
携帯を握り締め、ただ俯くだけだった。
重い沈黙がふたりに圧し掛かる。
あの日の再現ともいえる、彼らのいでたち。
同じ場所、同じ服装。
これは現実なのか、はたまた夢なのか・・・
だがマヤの動揺は一瞬だった。
前々から感じていた。
どこかで、こんな日がいつか来るであろうと、ある種の覚悟はしていた。
(もう夢はおしまい・・・あたし達はこの世界では、一緒にはいられない・・・)
最後くらいは・・・笑顔でサヨナラしたい。
「真澄さ・・・いえ、速水さん。あたし達、元の世界に戻ったんですよね?ここでは速水さんは大都芸 能の社長で、紫織さんという立派な婚約者がいて・・・あたしは、ただの紅天女の候補者・・・」
「マヤ・・?」
「今までありがとうございました。いっぱい夢を見させてくれて、あたしきっと一生忘れません。
だからどうぞ、あたしの事は気にしないで・・・紫織さんと・・・お幸せに・・・」
笑顔が崩れる。
マヤの根底が揺らぐ。
ここでお別れ、これ以上は辛すぎる。耐えられない。
マヤは踵を返し、駆け出す。
「マヤ!!」
真澄は彼女の後を追う。
マヤの言わんとすることは分かる。だが、と言って彼女と離れられるわけなどない。
彼女は彼の全てなのだから。
真澄の足にマヤが勝てるはずもなく、すぐに追いつかれた。
「放してください。もう終わったんです。あたしを・・・これ以上苦しめないで・・・」
苦悶の表情を浮かべ、マヤは身を捩り、真澄から逃れようとする。
そんな彼女を、彼は思い切り抱きしめる。
骨が軋む程、強く、ただ強く・・・
真澄は喘ぐように、マヤの耳元で囁く。
「俺から離れるな・・・約束した筈だ、ずっと一緒に居ると。一緒に生きていくと・・・俺はもう君なしの 人生など考えられない・・・」
「速水さん・・・でも、あたし達・・・無理です。今までのことは夢だったと思って、忘れましょう・・・」
「そうだ、夢だったんだ。夢だからこそ、あんなに順調に事が運んだんだ。現実は、本当はそんなに 甘いものじゃない。ここにこそ、俺達の真実がある。何があっても負けない。君がいれば俺は負けな い。ふたりの未来の為に、俺は戦う!!」
「速水さん・・・本気で言ってるの?」
マヤが驚きと、不安の混ざった表情で彼を見る。
「信じてくれ。君にはこれから辛い思いをさせるかもしれない。だが俺は逃げない。君も・・・一緒に
戦ってほしい。君にはその強さがあると信じている。この三ヶ月で、君の本当の強さを知った。
・・・だから・・・」
頼む、と小さく呟く真澄。
大人の彼が、とても脆弱に感じる。
(あたしは・・・このひとの何を見てきたんだろう?どうして信じようとしなかったの?こんなにも真実の 姿を曝け出してくれているのに・・・)
マヤは胸の奥から込み上げる、熱いものに突き動かされる。
自分を抱きしめる彼の背中に、そっと両手を回す。
「真澄さん・・・あたし・・・あなたと生きていきたい・・・その為なら、何でもする。どんな事にでも耐えて みせる。愛しているわ・・・愛している・・・」
「マヤ・・・俺もだ・・・誰よりも、何よりも、君を愛している」
互いの想いを噛みしめ合い、ふたりはいつまでも抱き合っていた。
より深まった絆を、確認するように・・・
たった今からふたりは恋人同士であり、現実という名の敵と戦う同志でもある。
夢幻を現実にする為に・・・
そう、この一瞬はつかの間の小休止。
雑踏のざわめきが、まるでさざ波のように聞こえる。
引いては寄せるその波は、やがて少しづつ遠ざかっていった。
そしてふたりの周りには・・・無限の静寂が広がり始める。
今はただ、そのしじまに身を預け、互いに瞳を閉じる真澄とマヤだった。



<Fin>



アイリーン様コメント

こんな稚拙な話にお付き合い下さり、本当に感謝してます。
SF設定と銘打ちながら、別物となり。甘いと言いつつ、さほどではなく。
ただただ、「速水さんとマヤちゃんをくっつけたい!!」という一念だけで書いた話。
そうです、こうなったら無理やりの設定に二人を放り込んで、そしたら何とかなるのでは?
と思ったもので・・・いやはや・・・
まったく無謀な話だったと思います。
こんな訳の分からないのに付き合ってもらえて、それでも嬉しかった。
読んで損したと思われたら、ごめんなさい。
特に酔っ払った男をマヤが丸め込むシーンは、あまりに安直で(月影先生のセリフまんま)
読み返し、固まってしまいました。(ゴメンナサイ!!)
これは生涯、出さない、ではなく出せない代物だと思ってました。
案の定、お蔵入りになる寸前、くるみんさんに拾ってもらいました。
いや、ホントそうなんです。
ですから心からの感謝を、くるみんさんにお贈りしたいです。
 
くるみんさん
あらためて、ありがとうございます。
こんな話を置いて下さるなんて、そんな心の広い方はくるみんさんくらいでしょう。
自分の書いた話を“駄作”とは思いたくないですが、これはけっこう“それもの”です。
でも何故か、密かに自分では気に入ってたりします・・・
 
そして・・・読んでくださった皆様へ。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
皆様にも、心からの感謝を・・・



管理人コメント

アイリーンさん、素敵な長編をありがとうございました!
拝見することができて、そして拙サイトでお披露目をすることができて、とても嬉しいですーー!

「パソコンで眠っている長編がある」とアイリーンさんにお聞きして読ませてくださいとお願いした
ところ、SF設定でありえない話なのでお蔵入りにするつもりです、とのお返事でした。
そこをなんとか、と口説いて口説いて口説き落として読ませていただいたのがこのお話です。

改めて推敲されてから、一話ずつ送られてくるストーリー。
続きが本当に楽しみで、これほど魅力的な話がお蔵入りになるところだったなんて・・
アブないところでした。


―――階段から落ちたマヤと真澄が行き着いたのは、微妙に軸の異なる別世界。
そこでは真澄は大都グループの会長であり、マヤは彼の妻だった―――

二人が、そして読者が望んでやまない世界!
この設定だけで、もうワクワクしてきます。

そして少しずつ、少ーしずつ近づく二人の距離にどれほどやきもきさせられたことでしょう。
「速水さん、その無意味な理性、どこかに捨ててきて!!!」と、どれほど思ったことでしょう。
焦らし上手なアイリーンさんに完敗です。

ラストの、愛する人を守るために強さを身に着けたマヤと「俺は戦う」と断言した速水さん・・・
なんて格好良いんでしょうかvv
理想の二人がここにいました!!
爽やかな読後感に胸がいっぱいです。

アイリーンさん、また眠らせるつもりのお話がありましたら、その前に是非!!お声掛けください。
飛んで参りますので♪♪