Day Dream 4




真澄が自宅であるマンションに戻ると、マヤが満面の笑みで迎え入れてくれる。
その笑顔を見るだけで疲れなど吹き飛び、心からの安堵感を得られる。
「おかえりなさい」 「ただいま」
そんなやりとりも、もう何度目だろうか。
真澄はマヤの腰を引き寄せ、その唇に軽くキスを送る。
彼女は一瞬躊躇するが、やがて彼の胸にそっと手を押し当て、静かに目を閉じた。
唇を離すと紅潮し、潤んだマヤの瞳が目の前にある。
たまらず、もう一度キスを送る。
今度こそ体を離し、優しく微笑む。
ここでやめなければ、とんでもないことをしてしまいそうだ。
「速水さん、お食事かお風呂、どっちを先にします?」
「そうだな・・・先に風呂にするよ」
「じゃあ、用意しておきますね?着替えてきてください」
マヤが、ぱたぱたと真澄の横を通り過ぎる。
その手をふいに掴み、いたずらっぽく笑う真澄。
「一緒に入ろうか?」
「じょ、冗談はよしてください。あたしは食事の準備をしなくちゃ」
感情が素直に顔に出る彼女は、すでに真っ赤になっていた。
笑いを噛みしめる彼の横を、今度は本当に通り過ぎていった。
 

熱い風呂の湯に浸かりながら、真澄はマヤのことを考えていた。
キスを拒む素振りのない彼女を訝しがっていた。
どうして彼女は嫌がらないのだろうか?
愛を語り合う恋人同士のような行為に、しかも相手は真澄であるにもかかわらず、彼女は拒まない。
いったい彼女はどう思っているのか。
彼には理解が出来なかった。しかし一つだけ確実に分かることもある。
きっとこれから何度も、マヤにキスをしてしまうだろう、という事実。
一度知った彼女の唇の温かさ、もう知らなかった頃には戻れない。
ここまできて、どうして自分は素直に愛を口に出来ないのだろうか?
心を置き去りにしたまま、行動だけが上滑りしていく。
(愛していると、君に告げることが出来れば・・・どんなにいいだろうか。それすら出来ない俺は臆病 者だ・・・な)
真澄は自身の迷いを振り切るように、思い切り湯船から立ち上がった。
 

いつもの食卓で、いつものように他愛無いお喋りが始まる。
本来なら元の世界に戻る為に、必死にどんな事でも模索するのが普通の筈だ。
初めてこの部屋に足を踏み入れた、あの日のあの夜。
自分達の立場を確認し合い、戻れるように考えてみようと・・・そう話し合った。
なのに、あれ以来、殆ど口の端にすら上らない。
思い過ごしかとも思ったが、互いに互いの心が垣間見えるような気がする。
マヤはともかく、真澄は彼女も自分と同じ想いではないのか?と考えていた。
そう、もしかして彼女も少なからず自分を想ってくれているのでは?・・・と。
嫌でもマヤに対して期待をしてしまう。
「料理のレパートリーが増えたな」
「他にやることもないし、今のうちに色々憶えたいなと思って・・・」
「まさか・・・俺の為にか・・・?」
真澄の問いに、マヤはあいまいに微笑む。
彼は知っていた。彼女が料理の本を何冊も買い込んでいるのを、決して器用ではない彼女が彼の為 に懸命に家事をこなしてくれることも・・・
そんな行動も真澄に期待をいだかせる一端となる。
(もし思い違いなら、一瞬にして俺は全てを失う・・・)
同時に彼女を失う恐怖心が、彼を絶え間なく襲う。
だからこそ、このあやふやな状況から一歩も動けないでいた。
やはり食後の片付けに、真澄も参加した。
真澄との暮らしが、少しでもマヤに負担を与えてないかと、常に不安が付きまとっていた。
居心地よく彼女が暮らしてくれるなら、真澄との生活に満足してくれるなら、彼はどんな事でもしよう と考えてもいた。
「ほんと、いいですよ。あたしがやりますから」
「君が家事や俺の世話をしてくれるのは嬉しいが、君は家政婦じゃないんだ。・・・女優なんだろ?
手が荒れるのはよくない。あとは俺がやる。君は座ってなさい」
「でも・・・そういうわけには・・・だって、あたしは速水さんのお世話になっているんだし、これくらいし なきゃ・・・悪いです」
マヤの一言に真澄の手が止まる。
「それで君は、俺のすることを拒まないのか?」
「え・・・?」
「いや・・・なんでもない。とにかくソファーに行きなさい。コーヒーを・・・そうだな、君にはココアでも
入れようか?持って行くから」
真澄の強行な言葉に、マヤは仕方がなくリビングへと向かう。
後片付けを手早く済ませた彼は、飲み物をトレーに乗せ、彼女の居るリビングにそれを運んだ。
 

いつの間にか、ふたりでいるこの時間が至福のひと時になっていた。
「今日は何をしていたんだ?」
「速水さんが買ってきてくれたビデオを観てましたよ。あと、買い物に行って・・・奥さんなんて言われ ちゃいました。なんだか主婦の風格がでてきてたりして・・・」
マヤがくすくすと笑う。
そんな様子に、心が温まっていくのを感じざるを得ない。
「明日、舞台を観に行こう。食事の用意もいらない、昨日言っただろう。仕事の都合で昼からになる が、いいか?」
「そんな・・・無理しないでって言ったじゃないですか。あたしにそんなに気を使わないで下さい。
これ以上速水さんのお邪魔にはなりたくない」
「俺が君と一緒に行きたいんだ、もう時間は空けてある。それにこれは記念日だからだ」
「記念日・・・?」
そんなのあったっけ?とマヤは首を傾げる。
「そうだ、忘れたか?明日で君との同居生活も一ヶ月だ・・・その記念だな」
そうか、と思い出し、頬を紅潮し、黒目がちの瞳を大きく輝かせた。
些細な事を憶えてくれている。真澄の心遣いが染み入り、やがてそれは全身に行き渡った。
「速水さん・・・ありがとう。とても嬉しいです」
そんなマヤの唇を、真澄は指でそっとなぞる。
覆いかぶさるように、自分の唇でそれを塞ぐ。
今までとは違う、少し熱いキス。
マヤはどうして真澄が自分にキスするのか、聞かない。
彼がどう思っていてもいい、彼が望むのならどんなことでも受け入れるだけ。
彼を愛しているから。
(速水さんは、きっとあたしを慰めてくれているんだ。あたしを哀れだと思って。このひとは優しい人だ から、あたしを放っておけなかったんだ・・・)
だんだん深くなる口付けに、マヤは息が止まりそうだった。
少し口を開くと、その口付けはますます深くなっていく。
「ん・・・んんっ・・・」
マヤは座っていることもままならず、ソファーに倒れこむ。
気付けば、真澄の体の重みを全身に感じていた。
彼は彼女の髪を撫でながら、唇を吸い上げていく。
静かな室内に、衣擦れと甘い吐息が充満していった。
彼女を欲する自身を止められない。
(このまま、マヤを抱いてしまおうか?)
甘いココアの味わいが彼の口中で鮮明に蘇り、そして消えていってもその唇を彼女から離すことなど 出来なかった。
(イヤなら拒絶してくれ・・・)
欲望と葛藤の狭間に精神を泳がす真澄の行動は、もう自分でも止める術がなかった。
「は・・・やみさん・・・」
喘ぐような苦しげなマヤの声。その声色には明らかな恐怖心が混じっていた。
瞬時に真澄は我に返る。泣いてはいなかったが、マヤの所在無く震える瞳とぶつかった。
そんな瞳を向けられ、平静でいられるわけがない。
慌てて彼女の体から離れた。
「・・・悪戯がすぎたようだ・・・わるかった・・・先に休むよ・・・」
彼は彼女の体を起こしてやると、寝室に歩を進めた。
徐々に制御が利かなくなっているのが、自分でもはっきりと分かる。
これ以上の触れ合いは危険だと悟った。
「今日は自分のベッドで寝なさい・・・俺も男だからな、もうどうなるか分からん」
真澄は一言残すと、寝室に姿を消していった。
その後姿を見送りながら、マヤは両手で自分の体をぎゅっと抱きしめた。
 

真澄の胸には、後悔が渦巻いていた。
マヤと触れ合っていると、我を忘れてしまう。
彼女にもっと激しく口付けたくなる、その身を自分のものにしてしまいたくなる。
彼女が抱きたい。
彼女はどんな反応を示すだろうか、その甘い声を聞いてみたくなる。
その胸はどんなに柔らかいだろう、その体内はどれほどに温かいだろうか。
そんな不埒な想像をしてしまう自分に嫌気がさす。
その刹那、人の気配を感じ振り仰ぐ。
ベッドサイドに立っていたマヤの、あまりにも切ない表情が闇夜にぼんやりと浮かぶ。
「どうした?今日は自分のベッドで寝るようにと・・・」
言いかける真澄の胸に、マヤは黙って飛び込む。
「チビちゃん・・・?」
「速水さん、ごめんなさい・・・悪いところがあったら直します。だから怒らないで、あたしをひとりにし ないで・・・」
あれからずっと泣いていたのだろう、彼女はしゃくりあげていた。
そんな彼女の姿にずきんと胸が痛んだ。
いつもいつもマヤを泣かすのは自分だ。彼女には何の落ち度もないのに。
自分の勝手な想いの為に、こんなに傷付けてしまった。
(俺は何を考えていたんだ・・・一番大切なのはマヤの幸せのはずだ・・・)
マヤのそんな姿を見ているうちに、憑き物が落ちたかのように欲望の波が引いていく。
真澄は彼女の髪をそっと撫でてやる。
「すまない、君に余計な心配をかけた。なんにも怒ってなどいない、君が気に病むことなどひとつも
ない・・・」
気にするなと何度も言ってやると、マヤは安心したように微笑んだ。
「一緒に・・・寝るか?」
「いいんですか?」
彼の申し出に、彼女はおずおずとベッドに入る。
「やっぱり、あったかいです・・・」
「そうか・・・もっと温めてやる・・・」
そう言うと、マヤの体をぎゅっと抱きしめる。
彼女は彼の腕の中、全ての緊張を解し、眠りについていった。
彼女の寝顔を見つめながら、彼は心中複雑なものがあった。
(いつまでもこのままではいられない。はっきりさせなければ・・・それがマヤの為のみならず俺の為 でもあるのだから・・・)
真澄は一つの決心をし、唇をかみ締めた。
(その結果、この生活がなくなってしまっても・・・それは仕方のないことだ。もうこれ以上嘘もごまか しもいらない。あとは真実という名の現実が残るだけだ・・・)
彼は愛しい彼女の温もりを、これが最後とばかりに掻き抱く。
夜は真澄の揺れる思いを乗せ、更けていった。
 

翌日、約束の刻限にマヤは大都の本社に向かった。
真澄は迎えを寄こすと言ったが、彼女は恥ずかしがって断った。
マヤは会社に足を踏み入れたが、誰も真澄の妻である北島マヤだとは気付かない。
(勝手に入っていいのかな?)
以前、役員用のエレベーターを使ったが、それをまた使ってもいいのか、彼女は迷っていた。
うろうろするマヤが不審に見えたのか、受付の女性が声を掛ける。
「当社に何か御用でしょうか?」
口調は丁寧だが、明らかに目は訝しげに彼女を見ていた。
「あ・・・あの、速水さんに用事があって・・・」
マヤは要点も悪く、そう答える。
「速水さん?それはどなたでしょう?」
「あの・・・会長の・・・」
しどろもどろに話すマヤは、途方にくれていた。
(速水さんの奥さんだって、言っていいのかしら?)
その時、「マヤ」 と呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、数人の部下を連れた真澄が後ろに立っていた。
「もう来ていたのか?早かったな。ん・・・?どうした?」
「速水さん・・・」
周りに聞こえる程大きな息を吐き出し、マヤはほっと胸を撫で下ろした。
真澄には取り縋る彼女の表情が、安易に見て取れた。
そしてマヤと受付女性を交互に見つめ、すぐに合点がいった。
「あ・・・はい、ごめんなさい。遅れるといけないと思って・・・」
「そうか、もう少し仕事が残っているんだ。悪いが部屋で待っててほしい、一緒に行こう」
受付の女性は呆気にとられた顔をして、ふたりのやり取りを見つめていた。
真澄はそんな彼女に目線を移し、静かに言う。
「彼女は俺の妻だ。これからは顔を覚えてくれ、頼むよ」
真澄はマヤの手を引くと、役員用のエレベーターに向かった。
受付の女性は、慌ててふたりの後姿に黙礼した。
 

真澄の執務室のソファーでマヤは、彼の仕事をする姿をじっと見つめていた。
端正な横顔で書類に目を落とす。てきぱきと命令を下す。
部下とのやりとりも、大都芸能の社長時代より磨きがかかり、彼女の目を釘付けにした。
(やっぱり、ステキ・・・速水さんってかっこいい・・・)
かりそめとはいえ、彼の妻である自分の幸せを噛みしめていた。
真澄と目が合うと、マヤは恥ずかしそうに目を伏せる。
彼はそんなマヤに微笑むと席を立ち、彼女に近付く。
ソファーに軽く腰掛けると、マヤに優しくキスをする。
「もう少しで終わるよ。待っててくれ・・・」
その指は彼女の髪を絡め取っていく。そして、ふたたび顔を近付ける。
「あ、あの・・・誰か来たら・・・」
「大丈夫だよ・・・」
真澄は言いつつ、マヤの唇に自分の唇を重ねる。
今日は彼女は、珍しく化粧をしていた。
日頃、化粧などほとんどしないマヤのメイク姿に、内心穏やかでいられなかった。
ピンクに彩られたその唇が可愛くて、無性に奪いたくなる。
「元気ももらったし、あと少し頑張るよ」
唇を離すと、彼はもう一度それを強く押し付けると、デスクに戻った。
その直後、ノックのあと水城が部屋に入ってきた。
「会長、最後にこの書類の確認を・・・」
言いかけて、その言葉が、動きが止まる。
「・・・真澄さま・・・これを・・・」
「なんだ?」
水城は彼に、ポケットから出した手鏡を渡す。
「だから、これはなんなんだ?」
「ご覧になってください」
水城は真澄の目の前に、手鏡をかざす。それからマヤに近付き、そっと耳打ちした。
「マヤさん・・・口紅が・・・ずれてますわ・・・」
言い残すと彼女から離れ、ドアに向かう。
「仲がよろしいのは結構ですが、ここは会社ですので・・・ほどほどに。それでは書類の確認だけ、
お願いします」
彼女は逃げるように、部屋を出て行った。
呆気にとられる真澄だが、鏡を見た瞬間、硬直する。
マヤの唇を彩っていたはずのものが、そのまま彼の唇を彩る。
真澄は慌てて、ハンカチでそれを拭き取る。
マヤと視線が合う。彼女はやっと意味が分かり、羞恥で顔を真っ赤にしていた。
真澄はバツが悪そうに肩をすくめると、最後の書類に目線を移した。
 

真澄は手早く仕事を終え、マヤを伴い大都本社を出た。
「ちょっと、遅くなったな。まあ、車をとばせば間に合うか」
真澄の運転する車の助手席に、当たり前のように座れる自分が少し誇らしい。
自然に頬が緩み、笑みがこぼれる。
どこに連れて行ってくれるのか、聞いても彼は微笑みながら答えない。
車は順調に、アスファルトの路上に滑り出す。
「ここは・・・」
彼らが着いた劇場に、マヤは見覚えがあった。
「アンナ・カレーニナ・・・」
「そう、そして今日の演目も・・・アンナ・カレーニナだ・・・」
真澄は彼女を促し、劇場内に入っていった。
そこはマヤが真澄に誘い出され、ふたりで芝居を観た劇場だった。
座席もあの日と同じ、SのB21。
その左隣には真澄が座る。
(これは・・・どういうことなの?)
彼の真意を計ることなど出来ず、彼女はその横顔を見つめる。
マヤの疑問をよそに、開演のベルが場内に鳴り響いた。
 

「マヤ・・・出ようか?」
終演。まだ夢見心地の彼女に、真澄が手を差し出す。
マヤは素直にその手を取り、劇場の外へと歩き出した。
「舞台はどうだった?」
真澄は彼女の手を離すことなく、ふたりは並んで歩いていた。
「最後がかわいそうで・・・」
「アンナが自殺するところが感動的だったんだろう?」
彼は彼女を遮り、代わりに彼女の言葉を続ける。
「どうして分かるんですか?」
マヤは驚き、真澄を振り仰ぐ。
「・・・前にも・・・そう言っていた」
「憶えていたんですか?」
「君の事なら・・・何でも憶えている」
その一言が、マヤの全身を駆け巡る。
「まだ4時前だな、お茶でも飲もうか」
繋ぐその手に力を込め、彼と彼女は再び歩き出した。
 

その後はやはり、ふたりが以前に入った喫茶店に連れられる。
大量のケーキを注文し、マヤはそれを全てたいらげた。
まるであの日と同じ。
「星を見に行こう」
誘われるままに、彼女は彼と“区立文化会館”へと足を運ぶ。
プラネタリウムの満天の星空。
いつか梅の里で見た、あの星空を思い出す。
あの時に会ったおじさんは、定年でここを去っていた。
真澄は落胆の色を一瞬見せ、マヤの心を痛ませた。
今日は神社の祭りの日ではないが、ふたりはひっそりとした境内を散歩する。
ここもあの日、立ち寄った場所。
マヤには真澄の考えが分からない。
あの時のふたりの行動をなぞるような、今日のデート。
そう、あの日もまるでデートのようだった。
「そろそろ行こうか。夕食は予約している」
真澄の言葉にマヤの思念は断ち切られ、彼女へと伸ばす彼の手をゆっくりと取る。
ふたりは当たり前のように手を繋ぎ、次の目的地にと向かって行った。
 

「地上も満天の星だな。でもこの明かりはイミテーションだ・・・」
真澄はホテルのレストランの窓から外に一瞬視線を送り、すぐに目を背けた。
ここはあの日の最後に、ふたりが食事をした場所。
気詰まりな空気が流れる。
(今日はどうしてあたしを・・・あの日と同じ場所に連れてきたの?)
疑問を口にするのも躊躇う、そんな雰囲気が真澄には漂う。
食事もまるで砂を噛むように、味気なく感じる。
「君に話がある・・・聞いてくれるか?」
ふいに真澄が重い口を開く。
「話・・・ですか?」
「そうだ、今日はここに部屋を取ってある。話はそこでするよ。・・・いいか?」
彼が探るように、彼女の瞳を覗き込む。
「・・・わかりました・・・」
そんな瞳に絡み取られ、否やとは言えるはずもないマヤだった。
 

真澄が取った部屋は、最上階のスウィートだった。
部屋に通されたマヤは、まずその夜景に圧巻された。
街のイルミネーションが瞬き、瞬間に引き込まれそうになった。
そんな彼女の姿をじっと見つめていた真澄だったが、ソファーに座るとブランデーをグラスに注ぐ。
そして、なみなみと注がれた琥珀色の液体を、一気に飲み干した。
煙草を取り出すと、それに火を点ける。紫煙が彼女の姿を揺らめかせた。
「座ってくれないか・・・」
彼の言葉にマヤはビクンと体を震わせ、ゆっくりと振り向く。
射るような鋭い視線に、彼女は捕らえられた獲物のごとく、従うしかない。
真澄の前におずおずと座り、上目遣いに彼を見る。
「二ヵ月後に、俺と君の結婚披露パーティーが催される。俺も昨日知ったばかりだが・・・それについ て君に確認したいことがある」
「確認・・・ですか?」
マヤには真澄の言わんとすることが分からない。
「いつかは元に戻れるかもと、俺たちは夫婦という形のまま一ヶ月が過ぎた。しかし一向に戻れる術 もなく、いや・・・皆目見当もつかないというほうが正しいか・・・とにかく結婚披露までに考え、決めな ければならないことがある・・・」
マヤは自然に体が震えるのを感じ、真澄の顔を凝視する。
「俺は君が望めば離婚も仕方ないと思っていた。勿論それは元に戻れない最悪の場合だが・・・
しかし一緒に暮らすにあたって不都合もなく、しばらくはこのままでもいいかと考えていた矢先の
結婚披露だ。俺と君の関係が、名実ともに夫婦として世間に認知される。そうなれば君にも・・・
重責がかかる。大都グループの会長夫人として、否応なく圧し掛かる責任だ」
マヤは真澄の一言一言に、青ざめていく自分がわかった。
「君は・・・どうしたい?そんな重責を本来なら負うこともない君だ・・・離婚・・・するか?」
彼の“離婚”の言葉にマヤは目を見開き、唇がわなわなと震えだした。
根底から何かが崩れる音が聞こえた。
「もしそんなことになっても、君の生活は保証する。住まいも提供しよう。女優としての君のフォローも きちんとしよう。君は、どうしたい?」
(カイチョウフジン?アタシニハ・・・ムリダカラ?ソレトモ?)
マヤの頭の中で真澄が言った“離婚”の二文字がぐるぐると回る。
「いきなり、こんなことを言い出して悪かった。だが、もうはっきりさせなければいけないことなんだ」
彼の優しい声が、彼女の耳に届く。
きっと彼はあたしの為に言ってくれているんだ・・・
でも・・・あたしは・・・離れたくない。わがままだって分かってる、それでも・・・
あなたが・・・好き・・・
自然に浮かぶ涙を、マヤは彼から見えないように、そっと拭った。
そんな想いを押さえこみ、マヤは口を開く。
「・・・速水さんのいいように・・・してください・・・従います・・・」
それだけ言うのが精一杯で、あとは俯く彼女だった。
しばしの沈黙の後、真澄は煙草を灰皿に押し付け、その火を消した。
「俺の決めたことに従うと言うのか?それがたとえどんなことでもか?」
「はい・・・」
「本当だな?」
念を押す彼の態度に、マヤは俯きがちだった顔を上げた。
真澄はソファーを立つと、マヤの隣に腰掛け彼女の両腕をぐっと掴んだ。
そして息を呑む彼女の小さな体を、思い切り抱きしめる。
真澄の心臓の鼓動が、マヤの体に伝わる。
「だったらこのまま一緒にいてくれ・・・俺と生きていってほしい・・・このままここで。本当の妻に、
速水マヤとして俺の傍に・・・」
「速水さん・・・それは・・・」
「・・・ずっと・・・愛していた・・・」
マヤの心臓がどくんと波打つ。
(・・・速水さんがあたしを・・・ウソ・・・?)
しかし、その告白はゆっくりとだがマヤの心に染み渡る。
再び彼女の瞳に今度は喜びの涙が浮かび、そして流れては落ちた。
「マヤ・・・?」
「・・・好きです・・・あたしも、あなたが好きです・・・ずっと、好きでした・・・」
素直な想いが、するりと唇からこぼれた。
慌ててマヤを体から離し、その瞳の奥を覗き込む。
「あたしもあなたと生きていきたい。でも、あたしでいいんですか?あたしでは会長夫人は役不足・・・ あたしじゃ・・・」
彼女の二の句を遮り、真澄は強引に唇を重ねた。
今まで抑えてきた感情が一気に爆発した。
角度を変え、より深く彼女の唇を貪る。
舌先を絡ませ、音が出るほどの激しい口付けを交わし続けた。
肩で息をするマヤから唇を離すと、真澄は今度はそっと彼女を抱きしめた。
「会長夫人?そんなことは関係ない。俺は君さえ傍にいてくれればいいんだ、それだけが俺の唯一 の望みだ」
「速水さん・・・あたし・・・」
「何もいらない、君さえいれば。例えどんな場所でも、どんな事をしてでも生きていける」
熱っぽい真澄の瞳がマヤを見つめる。
マヤは魅入られたように、しばらくその瞳を見つめ返す。
そして、彼の背中にゆっくりと手を回した。
陰影のある彼女の表情。滴り落ちる涙だけが、眩い輝きを放っていた。
「・・・あたしも・・・速水さん、あなたと生きていきたい・・・あなたの本当の奥さんにして下さい。
お願い・・・あたしとずっと一緒にいて・・・」
「マヤ・・・」
ゆっくり差し伸べられた真澄の手を、マヤは恐る恐るながらも、しっかりと取った。
彼は導くように彼女を引き寄せ、その小さな肩を抱いた。
ふたつの影は、やがて吸い込まれるように寝室へと、消えていった。
回り道をしながら、そして戸惑いながらも、やっと心情を露呈しあった二つの魂が、今やっと混ざり合 い、一つになろうとしていた。
真澄は生涯、口には出来ないと思っていたマヤへの想いを彼女の耳元で囁き続けた。
そしてマヤの緊張を解しながらも、徐々にその行為に没頭していった。
彼女に与えるであろう破瓜の苦痛を取り除こうと、労わりながらも愛し続ける。
やがて甘美な痛みを享受したマヤは、真澄との結実に何度も何度も涙を流す。
今まで知らなかった世界が、互いに見えてきた。
こんなにも心揺るがす行為があったとは・・・
もう互いに離れられない事実を、彼らはしっかりと認識し合った。
 
この夜・・・ふたりは本当の夫婦になった。
 

早朝、まだ辺りが薄暗い時間帯、マヤは夢見る心地で真澄の腕の中で目覚めた。
信じられない思いに駆られ、彼の厚い胸板にそっと耳を当てる。
規則正しい心臓の鼓動が、彼女の内耳に届いた。
ほうっと息を吐き、夢ではないと確認し体を起こそうとした。
「もう、起きたのか?」
「は・・・速水さん・・・」
ふいに昨夜の出来事が頭を過ぎり、慌ててシーツで体を隠す。
そんな様子に彼は、くすりと笑い彼女を引き寄せた。
「昨日は疲れただろう?もっとゆっくり眠っていてもよかったのに」
「あ・・・たまたま、目が覚めただけで・・・」
「そうか、じゃあもう少し眠ろう・・・」
真澄はマヤを、ふたたび腕の中に閉じ込めた。
服越しでは感じられなかった互いの肌の温もりに、安堵の溜息を漏らす。
ふと昨日の疑問が頭をかすめ、マヤは真澄に呟く。
「昨日・・・どうして以前ふたりで行った場所にばかり、あたしを連れて行ったんですか?」
彼は彼女の問いに少し表情を曇らせたが、すぐに穏やかな表情に変わる。
「やり直しを、したかったんだ」
「やり直し?」
「そう、あの日君を呼び出したのは・・・自分の気持ちを伝える為だった」
「速水さんの気持ち・・・ですか?」
「君を心から想っているという事を伝えたかった。鷹宮との見合い話が進んでいてね、勿論、君は
俺を嫌っていたし、すんなりと受け入れてもらえるとは思ってはいなかったが・・・」
そこで言葉を切ると、彼はマヤを抱く手に力を込める。
「君が欲しかった。どうしても自分のものにしたかった。だから・・・卑怯な考えも頭に浮かんだ」
「速水さん・・・」
真澄の切ない告白に胸が痛んだ。
「俺の正体を君に明かそうと思った。きっと君は否応なく俺を受け入れるだろうと・・・俺は・・・」
「紫のバラですか?」
「マヤ・・・!?」
「知っていました。あなたがあたしに紫のバラを贈り続けてくれたこと・・・影でずっとあたしを支えてく れていたこと・・・みんな、知っています・・・」
驚愕の瞳で彼はマヤを見る。
「それで・・・君は無理をしていたのか?俺に抱かれたのも・・・」
「誤解しないで。紫のバラを通して、あたしはあなたの優しさに温かさに触れました。本当のあなたを 見つけました。確かに、あなたが紫のバラのひとだと知ってから好きにはなったけど・・・でもこれで、 やっと本当のあなたに届いた・・・ありがとうございます・・・直接、あなたの口から聞きたかった」
おう揚に微笑むマヤは、今まで見たことがないほど美しかった。
「礼を言うのは俺のほうだ。・・・ありがとう・・・俺の全てを受け入れてくれて・・・」
一筋、光るものが真澄の頬を伝う。
ふたりはしばらく、無言のまま抱き合っていた。
 

真澄は恥ずかしそうにマヤを離すと、静かに語りかけた。
「2・3日中に君のスケジュールを組んでもらうよ。それなりのパーティーになるはずだ、君には色々と 勉強してもらわなければいけない」
「速水さんに恥をかかさないように・・・頑張ります」
「だが無理は禁物だ。俺は大都グループの会長夫人というより、俺の妻として皆の前に立ってもらい たい。まあ、君を見せびらかしたいというのが本音だな」
「やだ・・・あたし美人でもないし、スタイルも良くないですよ」
マヤはくすくす笑う。
「君は自分を知らない。君は綺麗になった、本当に綺麗になったよ。他の男の目に晒したくないくらい な。スタイルは俺が確認済みだ」
容姿について褒められたことが皆無のマヤは、真っ赤になり俯く。
そんな彼女を、ただただ愛しげに見つめる真澄だった。