君の微笑をこの胸に抱こう 後編







目的地に着くと、俺は2枚の札を運転席の男に渡した。
「彼女を家まで送ってくれ」言ってドアを開けると、思いがけず後ろから声をかけられた。
「速水社長、少し話をしませんか?」
運転手にここで待っているよう告げると、彼女も一緒に車から降り立つ。
古いガードレールに右手をかけ、俺は前方に佇むスラリとした姿に目を向けた。
彼女は俺の表情、気配を探るかのように視線を一巡させる。
沈黙が続き、道路を走り抜ける車の音だけが耳に入っては消えていく。

数十秒、あるいは数分後だろうか。
何かを見極めたように彼女が口を開いた。
「もう頭は冷えたようですね?」
「ああ、お蔭さまでね」苦笑交じりに答える。

「話したいこととは何だ?
いや、ありすぎるというところか、あの娘の保護者ともいえる君には」
「そうですね。言いたいことはたくさんありますよ。
でもマヤも保護者の下で守られるという歳ではありませんからね。
あの子が許しているものを私が許さないと意地を張っても仕方がないでしょう」
「許している・・?どういう意味だ?」
マヤは俺に愛想がつきて、逃げだしたのだろう?
今にも沈みそうになる心を押し隠し、疑問を投げかけた。
すると青木の目線が俺の後方へと移る。
誘われるように振り返った俺の目に飛び込んできたのは、求めてやまない女の姿。

「マヤ・・」
ずっと走ってきたのだろうか、白い息を弾ませて頬にはうっすらと赤みが差している。
なぜここに・・・。
信じられない思いで目を見張る俺に、マヤはくすりと笑い歩み寄ってきた。
「速水さん、いつまでもこのままでは風邪をひきますよ?」
トン、と指先で俺の胸元を突付く。
その瞬間、ひやりと冷たい感触と共に、甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐった。
「一体どこでひっかけたんですか?」
言われて初めてその事実に気づく。
俺のYシャツは胸の辺りが濡れて身体に張り付いていた。
そういえば駅に向かう途中で、ジュースの缶をぶつけられた気がする。
この匂いからするとスポーツ飲料か?

「ほらほら、考えている間に着替えてください」
そう言ってマヤは手に持っていた袋を俺に差し出した。
「これは・・?」
「着替えです。どんな服がいいかわからなかったから、無難なものを買ってきたんですけど。
速水さんがいつも着るような良い品ではないけど風邪をひくよりいいでしょう?」
本当に世話が焼けるんだから。
マヤはいつもの憎まれ口を一言追加する。

目の前で笑っているマヤを俺は呆然と見つめていた。
あまりにも予想外のことに、ただただ言葉を失う。
俺が嫉妬にかられて君を責めているときに、君は俺の身体の心配をしてくれていたのか?
俺が君に嫌われたと車内で落ち込んでいるときに、君は俺を気遣って服を買いに走ってくれて いたのか?
状況を理解するに従って、だんだん目頭が熱くなってきた。
「ありがとう・・マヤ」
簡単な言葉に全ての気持ちを込めて、そう言うのがやっとだった。

車のドアを締める音に、タクシーを振り返ると青木君が後部座席に乗り込んでいた。
「マヤ、速水社長と食事でもして帰りなよ。私はちょっと寄る所があるからさ。
速水社長、マヤを頼みましたよ」
言って彼女は開けたウィンドウ越しに笑いかける。
そしてタクシーはただ一人の乗客を乗せて走り去っていった。

「マヤ・・」
はい?とマヤが首を傾げる。
「俺と一緒に・・食事をしてくれるか」
恐る恐る問いかける俺に、もちろん奢りですよね?とマヤが微笑む。
「ああ、何でも君の食べたい物を食べに行こう」
彼女の邪気のない表情に俺は心底安堵する。
「それじゃぁ、この近くに行きつけのラーメン屋があるんですよ。そこにしませんか?」
「ラーメン屋?」
高級料理店に行く気満々だった俺は、肩透かしを食らった。
「ええ、黒沼先生達とよく行くんですよ。美味しくてお勧めなんです!」
楽しげに言うマヤに俺の気持ちも若干軽くなる。
「ではそこにしよう。案内して頂けますか、お姫様?」
「ええ、でもその前に車の中ででも着替えてきてくださいね、王子様」
ここで待ってますからというマヤの心遣いを嬉しく思い、俺は駐車場へと足を進めた。



「おい、そこにいるのは北島か?」
聞く人によっては、がさつとさえ感じるだろう大きな声が私の名を呼ぶ。
「黒沼先生、桜小路君」見ると、二人が丁度スタジオから出てくるところだった。
「若旦那には会えたのか?血相を変えて部屋を出て行ったんだが」
ニヤリと笑うその顔に、含みがあるのを感じた。
「速水さんに何か言ったんですか?」
「いや、別にたいしたことじゃない。
お前さんが美形と一緒に駅へ向かっていると伝えただけだ」
余計なことをっ、と思わずにはいられない。
「どうしてわざわざそんな言い回しをしたんですか」
「若旦那が取り乱すことなんて早々ないしな。なかなかに見物だったぞ」
愉快そうに話す黒沼先生を見て、私は少し速水さんに同情した。

「それで青木さんと速水社長は?」桜小路君が話を戻した。
「麗は先に帰ったの。速水さんは今、駐車場にいるけどすぐこっちに来るはずよ。
いつものラーメン屋に食べに行く約束をしたから」
「「ラーメン屋?」」
二人が声を揃えて叫び、次の瞬間、黒沼先生が豪快に笑い出した。
「あの速水社長をラーメン屋に誘えるのは日本広しと言えど、お前さんぐらいだろうよ」
いかにも可笑し気に笑う先生に、私は言葉を返す。
「あの速水社長を屋台のおでん屋に誘えるのも黒沼先生くらいですね」
「違いない」3人の笑い声が辺りに響き渡った。

「なぁ、北島」
ひとしきり笑ったあと、黒沼先生が真面目な顔で私に話しかけた。
「そろそろ覚悟を決めてもいいんじゃないか?今のままでは若旦那は蛇の生殺し状態だ」
それを煽ったのは誰ですか?とはさすがに言えない。
私と速水さんのことを考えての進言に「そうですね・・」と伏せ目がちに答えた。
「さて、俺達は俺達で呑みに行くとするか!」
そう言うと黒沼先生は桜小路君の背中をバシンと叩いた。
「はい。・・それじゃまた明日、マヤちゃん」
「うん、さようなら」
二人は繁華街のある駅の方へと歩いていく。
少し寂しげに見えた桜小路君が気になって、私は雑踏に消えていく姿を見守った。

「ずいぶん楽しそうだったな」
突然、少しスネたような声が私の頭上から降り注ぐ。
・・どこから聞いていたのかしら。
黒沼先生にからかわれた事を根に持って、顔を出さなかったとか?
まぁ気持ちはわからないでもないけど・・などと思いながら後ろを向いた私は、動きが止まってし まった。
目に映るのは黒いハイネックのセーターをざっくりと着ている彼。
いつもピシッとスーツを着こなしているのを見慣れているせいか、その姿は新鮮で常よりも柔ら かな印象を与えた。
また黒色のもたらす色気と、それを増幅する穏やかな微笑が私を惑わせる。
この人って本当に格好良いんだ・・などと普段は意識しないことをボーッと考えた。
「マヤ?どうした?」
速水さんの声にハッと我に返る。
「あ、あのセーター1枚で寒くないですか?コートでも羽織ったほうが良かったんじゃ・・」
「どうせ店についたら脱ぐようだから返って荷物になるだろう?
それに君が買ってくれたこのセーターはとても暖かい・・」
嬉しそうに笑う彼に、思わず赤面してしまう。
そんな自分を見られるのが恥ずかしくて、冷える前に行きましょう、と店へと歩き出した。


マヤに案内されたラーメン屋はカウンター席とテーブルが5脚ほどあるこじんまりとした店だっ た。
そこで俺たちは他愛のない話をした。
稽古のこと。日常の些細な出来事。好きな食べ物のこと。
脈絡なく、話はいろいろな方向へと転がり展開した。
「速水さんがラーメンを食べるのって、なんだか違和感がありますねー」
「お勧めだと連れて来ておいて何を言うんだ。それに俺だってラーメンくらい食べる。
出先で時間のないときはコンビニのおにぎりだけで済ませることもあるしな」
「ええーーっ、速水さんがコンビニっっ!似合わないっっ!」
ケタケタと笑うマヤ。
そんな彼女を見て、不思議なほどに落ち着いている自分に気づく。
ここ数日の荒れ狂った心の嵐が嘘のようだ。
俺が真に求めているものが何なのか、答えがここにあるような気がした。

隣にマヤを乗せ、俺は彼女のマンションへとハンドルを握る。
食事をしているときの雄弁さは既になく、ラジオから流れる一昔前のヒット曲が車内の空気を染 めていた。
歩行者用の信号が点滅を始めているのに気づき、俺は早めにスピードを落とす。
急ぐ必要はなかった。彼女が傍にいるこの至福を少しでも長く感じていたかった。
マヤをこの手に抱きしめ、身も心も俺のものにしたい。
俺という牢獄に永遠に閉じ込めたい。
そんな想いは変わらずに俺の心の支配権を得ようとくすぶり続けている。
だが、それを行って今以上の充足感が得られるかと言えば、それは怪しいものだった。
おそらく無理強いをしたところで、彼女の魂を手に入れることはできないだろう。
先ほどの、触れることなく交わされた一見意味のない会話。
それこそがここ数日で一番彼女の心に寄り添った時だと言うことが、今の俺には理解できる。
なんとも皮肉なことではあるが。
隣に座っているマヤは車窓を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
何か考え事をしているのだろうか。
今、彼女の心を占めているのが俺であって欲しい。
彼女の心をがんじ搦めに縛っていたい。
ささやかで・・欲深い願望だ。


闇の中に映る景色は昼間のそれとは違う側面を見せていて、私の目を楽しませる。
カーラジオからは昔聞いたことのある曲が流れていた。
音楽というものは時として過去の記憶を蘇らせる。
この曲が巷に流れていた頃、私は月影先生に出会い演劇という世界に足を踏み入れた。
紅天女という目標を得て、それは私の人生の指針となった。
そして私はこの頃にもう一つの運命との出会いを果たしていた。
昔も、今現在をも私を翻弄し続ける彼との出会いを。

何気なく眺めていた風景が私のよく知っている場所へと変化する。
良かった・・。知らず肩の力が抜ける。
今の彼なら大丈夫と思ってはいたけれど、本当に私のマンションへ送ってくれるかどうかは
ちょっとした賭けだった。
ここ数日の彼の行動を振り返ると、やはり完全に警戒を解くことはできない。
だからこそ夕食も私のテリトリーに、自分のペースに持ち込める場所にしたのだから。

車は私のマンションの前の路上へと静かに停止した。
「着いたぞ」速水さんが声をかける。
礼を言う私に「コートを忘れるなよ」とバックシートに置いてあったハーフコートを半身を乗り出し て取ってくれた。
すみません、と受け取り、車から降りるためにシートベルトを外す。
「マヤ」
「え・・?」
速水さんに呼ばれ振り向きかけた瞬間。
暖かく柔らかいものが私の頬に優しく触れた。 

「速水さん・・っ!」
思いがけないキスに驚き、私は彼の顔を振り仰いだ。
でもそこにあったのは慈愛に満ちた眼差しをたたえる彼の笑顔。
「セーターのお礼だよ」
胸元を軽く叩いて言う彼に毒気を抜かれ、ほだされてしまう自分を感じる。
「セーター1枚でキス1つなら、私は紫のバラの人にどれだけのキスを捧げればいいんでしょう ね」
冗談交じりで呟いた。
「別にキスにこだわらなくても、それ以上のことでも構わないんじゃないか?」
この男は・・っ。
抜け抜けと言う彼に言葉を返そうとしたけれど、それは彼自身の言葉で遮られる。
「冗談だよ。紫のバラの人は君に見返りを求めるために贈り物をしてきたわけじゃない」
「・・・ええ、知ってます」
何年にも渡る紫のバラの人への敬愛の情が込み上げて、自然に笑顔が零れてしまう。

そんな私を見て、速水さんは何を感じたのかスィッと表情を変えた。
「妬けるな」
「え?」聞き返そうとする私の肩に彼の手がかかる。
「君は『速水真澄』にはそういう笑顔を見せてはくれないのか?」
何を言っているんだろう、この人は。
紫のバラの人は速水さんなわけで、速水さんがこんな風に私を責めるのはお門違いじゃ・・。
混乱する私をよそに、彼は切なげな目を私に向ける。
「紫のバラの人は無欲でも、速水真澄は生身の人間で・・男なんだ」
彼は私の肩に置いた右手をカットソーごと腕の方向へと少しずらした。
そこに現れたのは、昨日彼につけられた紅の痕。
「マヤ、この印が消えても忘れるな。俺の想いが常に君にあることを」
「・・速水さんが女心をもっと勉強してくれれば思い出してあげてもいいです」
言い切る私に、彼は諦めたように溜息を一つついた。
「君がその女心とやらを手取り足取り教えてくれると嬉しいんだがな」
「甘えすぎですよ、速水さん。自分でせいぜい研究してください」
「・・全く君はつれないな・・」彼は私の肩に置いた手を外した。


やはりこの娘は一筋縄ではいかないようだ。
残念だが、今日のところは諦めて退散するとしよう。
「わかったよ、ちびちゃん。俺が狼になる前に早く車を降りた方がいい。
今日はゆっくり休んで疲れをとるんだな」
別れを告げる俺にマヤはくすりと笑った。
「今日はずいぶん礼儀正しい狼さんなんですね」
「!・・マヤッッ!!」
俺の中の葛藤も知らずに、この期に及んでまだ茶々を入れるのか?
思わず声を張り上げた俺に「静かに」と言わんばかりにマヤの人差し指が唇に触れた。
言葉を塞がれた俺の顔に影がかかる。
次の瞬間、チュッという甘い響きが彼女の人差し指越しに俺の唇に伝わる。
何が起きたのか理解できず固まっている俺に、マヤはニッコリと微笑む。 
「それじゃ、お休みなさい速水さん」
そう言い残すと彼女の姿はマンションの玄関へと呑み込まれていった。


参った・・俺は脱力してハンドルへ頭を伏せた。
まるで小悪魔だ。
囚われているのは誰なのか。
改めて自覚せざるを得ない。
追いかけても追いかけても彼女は捕まらない。
それは俺自身が檻に捕らえられていて、思うように身動きが取れないからだろう。
甘やかで優しげで残酷で・・そして強固な檻。
求める魂は思うままに自由に羽ばたいている。
捕まえるのは難しいと分かっていても、俺は彼女のいる空へと手を伸ばすことをやめることがで きない。

マヤ。
降りて来い、ここへ。
俺の傍に。
誰よりも君を欲している俺の所へ。

そのときこそ俺はこの枷を外し、飛び立つことができるだろう。
君と俺とは対の翼なのだから。




<Fin>


RIN様イラスト  yuri様イラスト


yuriさんの「あなたのキスを数えましょう」の番外編であり、RINさんの挿絵を頂いたこの小説 は、お二人からの勿体無いほどのご好意から生まれました。

番外編を書くにあたって「何か要望がありましたら」とyuriさんにお訊ねしたところ、キャラを多く 出して欲しいということと、できればRINさんのイラスト「初めてのキス」を挿絵として入れて欲し いということでした。
キャラに関してはメイン2人+4人は確定していたので問題なく、イラストも使わせて頂けるなら こちらとしても願ってもないことでした。
RINさんから「じゃんじゃん使ってください」とのありがたーいお言葉を頂いて大喜びで書き始め、 話の内容を練っているときも、とても楽しく幸せでした。

そしてyuriさんにはサイト開設にあたり更にイメージイラストまで頂いてしまい・・・嬉しくてなりま せん!

yuriさん、RINさん、本当にありがとうございましたvvv