Decision〜決意〜 1




 あの婚約披露の宴を、真澄は一生忘れないだろう。着飾った人々の衣擦れの 音。煌めくシャンデリアからこぼれる輝き。流麗なピアノの響き。飾られた花のむ せ返るような香り。吸い込まれそうに深い絨毯を踏む靴の感触。囁き交わす人々 は傍らに立つ女性の美しさを誉めそやし、羨望の眼差しでため息混じりに彼女が はめる指輪の石の大きさを憶測しあっていた。大きな後ろ盾を持つ、美しいと思え る女性との婚約。真澄の前途は洋々と開けており、彼はその場の主役としてそつ のない態度で多くの権力者達に接していた。だが忘れられないのは、そんなこと ではなかった。本当に忘れられないのは、忘れてはいけないのは、マヤの凍った 表情。割れたグラスの細い悲鳴。零れ落ちそうに涙を浮かべた大きな瞳。細かく 震えていたその小さな体だけ・・・。
 その後、マヤがどうしても阿古夜を掴めずに苦しんでいると言うことを知り、真澄 は一つの賭けに出た。奮起を促そうと彼女を手ひどく痛めつけたのだ。長い間、 怒りと憎しみだけを糧に生きてきた彼は怒りが原動力になることしか知らなかった のだ。優しく見守られたことのない哀しく不器用な魂。幼い頃から自身がしてきた ように、きっとマヤもその怒りを支えにつらい時期を乗り越えてくれると信じて疑わ なかった。このまま行けばいつか見た雛鳥のように、マヤは女優としての生命を 絶たれてしまうだろう。それだけはあってはならなかった。マヤを羽ばたかせなけ れば。そのためには、俺は鬼にでも悪魔にでも、何にだってなってやる。どれほど 心が傷つこうが痛もうが、きっとやり遂げてみせる。絶対に。それは俺にしかでき ない、俺以外の誰にも任せたくない大切な使命だ。そう思っていたのだ。だが。
 
 10月10日、試演当日。素晴らしい好天に恵まれた。夏とは違う暑さと陽光の 色、風の香り。それらが全てマヤの幸運を表しているような気がしてならない真澄 だった。正直、不安はあった。だがマヤなら必ずや、やってくれると思っていた。確 信していた。しかし、いざ試演の幕が上がると、愕然とせざるを得なかった。密か に期待していたマヤの演技は本来の精彩を欠き、苦労していたと言う阿古夜の 役も、一見上手く表現できているようだったが心に訴えかけてくるものは何もな
かった。天女の演技にも、体温を感じさせない神秘的な精霊を表現するにはあま りにも肉体の表現力が足りないことを露呈してしまっていた。神の世界、天空を自 由に舞い飛ぶ精霊の女神と言うよりも、土に根ざした神のようだと、評論家の一 人が言い、それを聞いた意地悪な人々はその言葉を笑いもした。だがその言葉 は、以前真澄自身がマヤに向かって吐いた言葉と全く同じではないか。「紅梅の 精と言うよりも梅の木の根っこの精」。先の評論家の言葉とあの時の言葉と、一 体何の違いがあろう。己の無神経さを突きつけられた思いがし、今更ながらに歯 噛みを禁じえない真澄だった。
 それに引き換え、その後に演じられた亜弓の「紅天女」の演技の凄まじさはどう だ。言葉には尽くせないほどに神秘的で香り立つように美しく、文句の付けようが ない素晴らしさだった。紅梅の精を演じる時には梅の花びらの散る様さえが見て 取れた。村の娘を演じる時には可憐な乙女の恋の胸苦しさに涙を誘われるほど だった。演じる亜弓の皮膚からは、体内に沸き起こり、溢れ、出口を求めて蒸発し ていく気迫がゆらゆらと陽炎の様に見える気さえした。観客を、審査員を、そして 真澄を圧倒する亜弓の「紅天女」。一体誰が、これほどまでに素晴らしい「紅天 女」を亜弓が見せてくれると想像しただろうか?マヤの演技とは、誰が見ても全く 比べ物にならないだろう。そう、それは真澄の眼から見ても。これは一体どうした ことか?マヤの演技はどう見ても100%とは言えない。梅の谷で見せたあの天 女の目覚めのシーン。己のちっぽけな人間性など打ちのめすかのようなあの畏 怖の念が今のマヤの演技からは湧き出してこないではないか。違う。これは本来 のマヤではない。だとしたらそれは一体何のせいなのか?誰かのせいなのか? 俺のせいなのか・・・?真澄は理由のわからない混乱に突き落とされてしまった。
 
 両者の試演が終わり、審査に入った。シアターXから近くに建つ一流ホテルに 場所を移しての審査は、当初、混乱すると思われていた。日本演劇界において、 長く封印されていたの幻の名作「紅天女」。それを引き継ぐただ一人の女優を選 ぶのだ。そう簡単に決まるはずがない。誰もがそう思っていたのだ。だがしかし、 いざ蓋を開けてみれば結果は火を見るよりも明らか。審査にかけた時間はわずか でしかなかった。あとから聞いた話では、マヤを推す者もわずかにいたらしいが、 それはあの梅の谷で見た二人の天女の「目覚め」の演技での、マヤの形容しが たい存在感に圧倒された者だけだったようだ。「あれは本来の北島マヤではな い」と。「あの時の北島マヤが本来の北島マヤならば、姫川亜弓がどれほど美しく ともその存在感に敵うものではない」とまで言った審査員もいたらしい。だがしか し、それはあくまでも少数意見。大多数は亜弓を推した。今現在、紅天女の権利 を持つ月影千草の秘蔵っ子であるマヤを批判することで彼女の機嫌を損ねる結 果になることをを恐れる数名の審査員もいるにはいたが、当の月影は意見を求め られた時に、全てを演劇協会の理事長にお任せすると言ったきり水底のような沈 黙に身を沈めてしまい、そうなるともう、誰も遠慮がなかったそうだ。冷酷なようだ が、客観的に見るならば、当然のことだろうと真澄も思う。その美貌。見事なまで のプロポーション。演技の素晴らしさ。そして幼い頃からのネームバリューに、そ れを支えてきた著名な両親。どれをとってもマヤが亜弓に敵うものは何一つない ではないか。
 そう、これは純粋な芸術ではなく所詮は商売なのだ。この世界では、どれほど 志が高くともそれだけでは食べてはいけない。人も虫も、甘い蜜には群がるもの だ。同じように美しい花があったなら、誰も、甘い蜜を持つ花に惹かれるだろう。自 分の仕事はその甘い蜜を醸し出す花を見つけては、根こそぎ引き抜き「大都芸 能」と言う花園に移植することではなかったか。それなのに、ただマヤが愛しい一 心で、肝心な時に蜜を嗅ぎ分けるビジネスマンとしての嗅覚が鈍っていたのかも しれない。真澄は己の甘さを痛烈に悔いた。誰にも負けない演劇への情熱を持っ ていようとも、現実に梅の谷で素晴らしい演技を披露しようとも、試演が今日の日 であることがわかっている以上、それに合わせて己のコンディション、モチベーショ ンを高めていき、ベストの状態で板の上に立つべきなのだ。そんな基本がマヤに はできなかった。役者としての才能云々以前の問題だ。それができない者は、ど れほど演技の才能に恵まれていたとしても商業演劇の世界では生きてはいけな い。日本演劇界の幻の名作「紅天女」の後継者は、この日あっさりと亜弓に決定 してしまった。
 一足早く報せを聞いた真澄は呆然とした。今日のこの日を迎えるまで、マヤがこ の試演に破れることなど考えもしなかったのだ。
 
 そしてふと、マヤもどれほどのショックを受けるかと想像し、たまらなくなってし
まった。この結果が発表されれば、マヤは「紅天女を目指す」と言う、言わば生き る目標を失ってしまう。師と慕ってきた月影も、あと何日生きられるのか。何しろ 「次代の紅天女」にその上演権を譲り渡す、それだけを杖として命を繋いでいるの だ。厳しい言い方だが、それもはっきり決まった今、明日の命も知れないだろう。 マヤには既に母もなく、帰るところは最早ない。彼女が生きていけるのは演劇の 世界だけであろうし、女優としてしか生きられないだろうことは間違いない。何も 「紅天女」だけが芝居ではないではないか。この試演の出来は決していいとは言 えないが、マヤほどの実力があれば必ずや誰かの目に止まり、大きなチャンスを 掴むだろう。もし誰もマヤの女優としての天性に気がつかないと言うのなら、自分 が蔭で動いてもいい。日本での活動が難しいのなら、いっそ海外に働きかけても 構わないだろう。真澄はそう思った。マヤのあの計り知れない才能をこのまま埋も れさせるのはあまりにも惜しいではないか。それはマヤを女性として愛しいと思う 想いとは別に、純粋にその女優としての才能を信じ、傾倒しているからだった。確 かにマヤに入れ込むのは、亜弓に力を入れるよりも利益には繋がらないかもしれ ない。しかしそんなことは関係ない。マヤのためならビジネスの人脈も、金も、使 える物は何でも使い出来うる限りのことは全てしてやりたい。それぐらいしか自分 にはしてやれることがないのだから。だが、もしあの小さな体の内側に燃え盛る、 美しく輝く情熱の炎が「紅天女」にだけ向けられるものだとしたなら・・・。真澄は体 の芯が凍るような寒気に震えた。
 
 マヤが紅天女の試演に破れること。それ以上に考えたことがないのがマヤが女 優を辞めると言うことだった。だがありえないと思っていたことが現実に起こった 今、もっとも考えたくないことも決して起きないとは言えないだろう。それに真澄は 知ってしまっている。仕掛けられた罠に落ちてしまったマヤが芸能界から追放さ れた際、自分の下から逃げ出して幼稚園で働いていた時に見せたあの笑顔を。 なんて穏やかで幸せそうな微笑だったことか。それを知っているだけに真澄は恐 れた。マヤが女優をやめると言い出すことを。
 美しいと言われる婚約者が、どういうわけか「紫のバラの人」の名を騙ってマヤ に絶縁状を送りつけたことは聖から聞いて知っている。だが事を荒立てたくない真 澄はそのことは不問に付していた。あの人は時に激して自分の感情をぶつけてく ることがあるが、真澄が何もかもを受け止めたいと思うのは彼女ではない。卑怯 なことかもしれないが、彼女と向き合うつもりはまるでなかった。だからやったこと が何であれ、関わるつもりもない。静観していればいずれはほとぼりも冷めるだろ う。その時は「あれは何かの手違いだった」と一筆書いて再びマヤに紫のバラを 送ることも、援助を続けることも可能だと思っていたのだ。もし万が一彼女の監視 が厳しくその目をかいくぐることが出来ないとしても、マヤが女優である限り、芸能 社の社長として、例えば蔭に回っていくらでもマヤを助けることが出来る。さすが にそこまではあの人に差し出口をされる心配もないのだ。だがマヤが女優を辞 め、ただの「北島マヤ」個人になってしまえば、それすらももう適わなくなってしま う。自分とマヤとの繋がりは、マヤが女優である時にだけ成り立つ、細い綱の上 でのことだったと初めて気がついた。深い考えもなく書いた「あなたのファンより」 と言う言葉。それが実は、自分の望みをなんでも叶えてくれる万能の呪文ではな く、マヤが女優を辞めてしまえば何の効力も示さない脆い魔法の言葉だったとい う考えに至った時、真澄は自分の足元が崩れていく、虚しく響く寒々とし音を聞い た気がした。

 義父を恨んで生きてきた。彼が憎かった。物心ついて初めてできた「父親」と言 う存在に、情を求めたにもかかわらず、一度も理解されなかった上に横暴なまで に厳しかった義父。母には一片の愛情もかけずに、省みることすらなかった義 父。自分の命の存在さえも無視するように見限り、母の命よりも紅天女の形見に 固執した。そんな義父に復讐するためだけに「紅天女」を求め続けた自分だった。 義父への憎しみだけに縋って生きてきたと言ってもいいだろう。会社を大きくした 暁には君臨する義父をその玉座から引き摺り下ろし、紅天女さえも義父から奪い 取り、何もかもを自分の手中に収めた末にボロ布のように義父を捨ててやろうと 思っていた。誘拐犯にナイフを突きつけられ、必死で義父に命乞いした挙句に見 捨てられたあの時のように、年老い、金も権力も奪い取られ、地位も名誉も情熱 も、何もかもを失ったことに気づいた義父が慌てて無様に命乞いする姿を笑いな がら見捨ててやろうと。そうすることが自分と母の精神を殺した義父への唯一の 復讐であり、自分が生きている証なのだと思っていた。そのためにはどれほど人 から蔑まれようと冷酷になれたのだ。どんなチャンスも逃さなかったし、チャンスが なければ強引にでも作った。勿論人のチャンスを見つけると即座に潰しにかかり もした。鬼だ、冷血だの言葉は真澄の耳には賞賛の言葉にさえ等しかったのだ。 だが。そんな時、マヤと出会ってしまった。恐らくは、この世でただ一人の魂の片 割れと。
 人はどれほど心が汚れても全く汚い部分だけにはなり切れないのだと思い知ら された。マヤに無償の愛を捧げる時、確かに真澄の心は浄化されていた。それを 否むつもりはない。そしてその浄化の心地よさを一度でも知ってしまえばもう、気 づかなかった過去へ戻ることなどできないのだ。マヤに出会ってからは、己の汚さ の代償のようにマヤへの援助に溺れていった。それは甘美な蜜であり、今までに 味わったことのない甘露だ。更に密かであればあるほどに、その蜜は甘さを増し ていく。マヤと出会い、マヤを知っていくにつれ自分を支えるものは義父への憎し みではなくマヤただ一人になっていくことを、正直恐れた時期もあった。だが恐れ つつもそんな自分を止められなかったのだ。その一方で、やはり抜きがたい義父 への負の感情からか、それとも幼い頃からの習い性なのか、仕事には歪んだ熱 意を見せてもきた。鷹宮天皇のと呼ばれ、恐れられる業界随一の権力を握る老 人の孫娘との結婚でさえ仕事の一つでしかなかった。元よりマヤしか愛したこと がないのだ。初めて会う女性を愛せるはずがない。もし気に入られれば結婚する し、気に入られなければこの話はなかったことになるに過ぎない。そんなつもりで 望んだ見合いの席だった。だが、幸か不幸か気に入られてしまった。商品として の価値は付けにくいが、それでも標準以上には充分美しいと思えるその女性に。 惜しむらくは真澄にとって、外見の美しさなど何の意味も持たないことだろうか。
 見合いをした。望まれて付き合いも続けた。マヤを想うと気が進まなかったが相 手の女性は世界規模の大企業と言う後ろ盾を持っている。そんな女性が自分を 想ってくれる情熱にほだされるままにずるずると婚約までした。披露目もした。結 婚は試演の後と決まってしまった。それでも。
 マヤがいる。真澄にとって彼女は犯しがたい神聖であり、何人も自分の中にい るマヤに触れることも汚すこともできない。それは真澄だけのものであり、彼女が 心にいる限り、清らかな水の湧き出す泉のように自分の精神の穢れを浄化してく れるのだと思っていた。たとえその繋がりが仕事や金だけであろうとも、確かに自 分はマヤと繋がっているのだ。もしもマヤと繋がる糸が全て断ち切られてしまった ら、俺は一体どうなると言うのか。狂ってしまうのではないのか。俺が俺でなくな るのでは?真澄は心底恐れた。そうなってしまっては、到底紫織となど一緒に暮 らせるはずがない。生きていることそのものにさえ、一体どれほどの意味があると 言うのだ。

 これ以上ないほどの絶望感を抱えて臨んだ発表だった。紅天女の後継者として 亜弓の名が告げられた時のマヤの顔を見るのがつらい。だが見届けねばならな いと思い直した。マヤの情熱を蔭から支え続けた長い年月。本当に辛い時にこそ 受け止めてやらないでどうするのだ。それこそが俺の務めのはずだと。
 ひな壇の上、スローモーション仕掛けでマヤの表情が変わっていく。ぎゅっと結 ばれた唇。紅潮した頬。いつしか瞳は固く閉じられた。やがて唐突にその瞳は大 きく開かれ、頬の血の気は瞬時に失せていった。白く色が変わっていく唇はブル ブルと小刻みに震えているのだろうか?貼りついたままの表情。瞳には何も映し ていないのかまるでビー玉のように会場のライトを反射しているだけだった。見て いられないほどに痛々しいマヤの表情を、しっかりと見つめ受け止める真澄の目 には、今はマヤ以外の全ては色を失い、音さえも聞こえてこなかった。恐ろしいほ どの静寂とモノトーンのなかにくっきりと浮かび上がるマヤの姿。
“見ていてやる。俺がしっかりと見ていてやる、マヤ・・・!”
 その時、奇跡は起きた。信じられないような展開。誰が予想しただろう。手術を 無事終え、目は完治したと聞いていたのに、実は亜弓の目は見えていなかったと 言うのだ。そんなばかな。真澄は亜弓が手術のあとでようやく包帯を外したという 知らせを聞いて見舞いに行った日のことを思い返した。あの時、亜弓はすっかり 目が見えている様子だった。なんの不安げな様子もなく、手ずから自分に紅茶を 淹れ、もてなしてもくれた。好物と聞いていた手土産のチーズケーキを見て、あん なに喜んでいたではないか。「亜砂呂のチーズケーキは久し振り」だと。では、あ れは一体どういうことなのか。あの時は見えていたのか?それとも、どうやってか 俺が持ってくるケーキの店の名を調べたとでも言うのか?あのケーキは俺が買っ たものではなく、水城くんに買いに行かせたものだ。俺ではなく、水城くんに尾行 でもつけていたのだろうか?
 いや、それはないだろう。考えられることはただ一つ。恐らく、匂いでわかったの だろう。そもそもチーズケーキとは香りの強いものではないか。彼女は箱から漏れ る微かな香りから、大好きな店のケーキであることを悟ったのではあるまいか。そ れにもしかしたら店でいつも使う包装紙の手触りや箱の形を覚えていたのかもし れない。恐らく何度も練習したのだろう。そしてこの俺を騙したのだ。完璧な演技 で。これだけの審査員の目を欺き、見事な芝居で演じきった亜弓の「紅天女」。こ の俺一人を騙すなど造作もないことだったに違いない。まさしくしてやられた、そ んな気持ちだった。
 亜弓に完敗した感でその姿を見上げていた真澄は、更なる奇跡を耳にする。亜 弓が治療に専念するための1年の期間をマヤに与え、1年後の試演で亜弓の納 得のいく「紅天女」を演じることが出来れば上演権をマヤに譲ると言うものだった。 これを奇跡と言わずして何と言おう。絶望の、暗くて深い淵の底から一挙に天上 の光溢れる門の前に立つ心地で真澄は事の成り行きを見守っていた。
 
 紅天女の上演権を手にした亜弓は、演じる権利は辞退したものの上演する権 利はまだ手にしたままだ。亜弓の挑戦を受けたマヤは1年後再び、今度は共に 演じる者同士としてではなく、引き継ぐ者と引き渡す者とに別れて戦うことになっ た。
 そう。マヤは再び紅天女を目指す道を歩み始めたのだ。一度はマヤとの絆が切 れてしまったかと諦めた。そんなことにでもなれば、自分は一体どうやって自分を 保っていることが出来るのかと恐慌に陥った脆い俺の心。幼いあの日のように、 再び死んだ心を抱えて生きていくにはマヤの存在は大きすぎる。今更どうやって マヤなしで生きて行けと言うのか。これはもしかしたら、天から与えられたチャンス なのかもしれない・・・。


 気がつけば花屋の前に立っていた。様々な色と香りの花が競うようにして買い 手がつくのを待っている。その様はまるで遊郭のようだと真澄は思った。
「どういったものをお求めで・・・?」
 花屋の店員が恐る恐ると言った様子でそろそろと背後に回って近づき、尋ねて くる。店に入るなりジロジロと店内を見渡して、紫のバラを見つけた途端その花を 見つめながら一言も発しない、身じろぎもしない俺に、異様なものを感じているの だろうか。
“「どういったものをお求めで」か・・・”
 まさしく的を得た質問だ。俺は一体何を求めているのか。マヤへの支援なの か。マヤを支援することで得られる心の浄化なのか。それともマヤそのものなの か。もしマヤそのものを求めているのなら、この目の前のバラを買うと言うことは己 の退路を己の手で断ち切る事になるだろう。後には引けぬ道へと自分を追い込む ことになるのだから。
 だが、それもまたいい。マヤが審査で破れたあの時、俺の心は一度死んだの だ。姫川亜弓によってもたらされた奇跡のおかげで再び息を吹き返した俺の幸運 な心。ならばもう、恐れるものは何もない。
「この紫のバラをありったけ」
 振り向くこともなく告げる真澄の瞳には不思議な生命力が漲っていることに、店 員は気づかなかった。