Decision〜決意〜 3




 着る物は充分に吟味した。これから重要な話をするのだ。なるべく誠実に見える よう、スーツのブランドはイタリアなどのファッショナブルなものを避け、堅実さをア ピールするつもりでイギリスの物を選んだ。ネクタイも、素材、色柄共に派手にな らないように気を遣った。だからと言って地味になりすぎてもいけない。こちらの若 さをある程度アピールもしたかった。あちらになくてこちらにあるもの。それは今や 若さと情熱と大胆さしかないのだから。
 指定された時間より30分早く到着した真澄は、当然だが翁より一足早く座敷へ と通された。国内外の著名人しか入ることの許されない料亭。その店の中でも最 も格式のある部屋に通され、否が応にも緊張が高まっていく。が、これも恐らくは 翁の作戦の一つであろうと思う。一般に考えて、こちらの方が非礼を働いている のである。しかもこちらの方がはるかに歳が若い。指定された時間よりも早く到着 するであろうことはとうに見抜いているはずだ。その上でこの、地味ではあるもの の調度の全てが超のつくほど一級品ばかりでしつらえられた室内に通し、こちら を圧倒し不安な気持ちを煽ろうというのだろうと真澄は思った。この雰囲気に飲ま れてはならない。真澄は自分を戒めた。

 刻一刻と過ぎていく時間。やがて指定された時間が来たが、翁は現れなかっ た。これもまた、不安を煽る演出なのか?さすがに世間から鷹宮天皇とまで呼ば れる人物だ。人の心を支配する術を心得ていると言わざるをえない。これほどの 覚悟を持っていなければ、恐らく簡単に押し潰されてしまうだろう。だが、今日は そうはいかない。向こうの策に嵌ってなるものか。真澄は自分を落ち着かせるた めに、マヤと共に過ごした時間を思い返してみるのだった。美しい夜景を前に瞳を 輝かせて歓声を上げる子供っぽい表情。手の込んだ料理に舌鼓を打つマヤの満 足げな笑顔。音もなく降り注ぐ桜の花びらの美しさに我を忘れて手を差し伸べる 仕草。助手席で時に見せる安心しきった寝顔。軽いカクテルで目元を薄紅色に染 めるほころびかけの蕾を思わせる艶っぽい眼差し。他愛ないことを話しながら共に 笑ったあの時の気持ちよい笑い声。それらが次々と真澄の心に淡い色の花を咲 かせていく。数え切れない花々が、心を凍らせる緊張をほぐし溶かしていくのを
はっきりと感じることが出来た。そうだ、俺にはマヤがいる。マヤさえいれば他に は何もいらないじゃないか。マヤのことさえ考えればこみ上げてくる緊張感も
すーっと落ちていく自分を、真澄は我ながら頼もしいと思えた。よし、これならいけ る。
 5分が過ぎた。10分、15分。もうあとわずかで20分を過ぎようというところで女 将に案内されて翁が入ってきた。年齢のわりにはしっかりとした体を包むのは、あ れは大島の単だろうか。袴も同色の渋い色で枯れた老人然とした装いだ。だがそ の表情は決して枯れてなどおらず、むしろ鍛錬を積んだ老武術家を思わせるよう な雰囲気だ。目は異様な光を放ち、他を圧倒する印象を与えている。老いてなお この威圧感。何の武器も持たずにこの老人と対峙するのは利口とは言えないだ ろうと真澄に思わせた。
「やぁ、済まない、真澄くん。待たせてしまったようだな」
 開口一番あっさりと遅れてきたことを謝る翁。なかなかの好々爺ぶりだ。これも 策略のうちか。
「いえ、大したことはありません。ぼくの方が早く来すぎました」
 きつねとたぬきの化かしあい。果たして軍配が上がるのはどちらだ?だが真澄 の背後にはもう、退路はない。正に決死の覚悟で挑む対決の幕が切り落とされ た音を今、真澄は確かに聞いた気がした。

「ところで真澄くん。どうもうちの紫織がおかしなことを口走っておってな」
 互いに向かい合って贅を凝らした室内に座り、目にも美しい季節の料理を前に ちびちびと杯から極上の酒を啜りながら翁がこちらを薄目で見ている。いよいよ か。真澄は腹を括った。大丈夫だ、俺にはマヤへの愛がある。
「と、言いますと?」
 料理には手を付けず、真澄も杯を口に運びながら何気ない風で尋ね返す。ここ で慌てるわけにはいかない。翁はそんな真澄のふてぶてしい態度に幾分気を悪 くしたようだ。おもむろに袷に手を突っ込み一通の封書を取り出したかと思うと真 澄の方に放って寄越した。
「これに、心当たりがあろう?」
 津軽塗りの高価な食卓のつややかな上を滑る真っ白な封筒。それは確かに真 澄が紫織に送った、婚約の解消を申し入れた手紙であった。真澄はそれをちらり と一瞥し、手にも取らずに翁の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「これはぼくが紫織さんに差し上げた、婚約の解消を承知して欲しいと申し入れた 手紙だと思いますが?」
 人から恐れられることには慣れている。そうでなければ世界を舞台に手広く広げ た商売を、繁栄させ続けることはできないだろう。常に人の上に立ち、支配し、威 圧し続けてきた鷹宮の名。肝の小さい人間などは自分の前に出てくることすらで きないと聞く。相当に自分に自信を持っている者でさえ、目の前に召されればとた んに意気地がなくなるのだとも。だから、恐れ、縮こまる人間は飽きるほど見てき た。力の強い者の前では力の弱い者は卑小になるしかないのだ。だが、目の前 のこの若造の不遜な態度はどうだ。孫と言っても遜色のないこの小童は臆するこ となく堂々と、いっそふてぶてしいまでの態度を見せ付けているではないか。面 白い。こやつ、とんでもない切れ者なのか、それともただの馬鹿なのか、確かめ てみるのも一興だ。天皇とまで呼ばれ人に恐れられるこのわしにここまで思わせ る人物には、もうここ何年も会ったことがない。
 老人は、確かな手ごたえを感じ、どこか、心の高鳴りを覚えるのだった。

「真澄くん。どうもきみの考えていることがわからんのは、わしが耄碌したせいな のかのぅ?」
 再び翁はとぼけた好々爺のふりをして見せる。なるほど、こちらの手並みを見よ うと言うのだな。真澄は翁の考えを読み取る。そちらがそのつもりならば、少しは 仕掛けてみるとするか。
「いえ、そんなことはありません。ただぼくの方ではもう、お孫さんと結婚する気が なくなった、と言うだけのことですよ」
 途端に翁の顔に血が上るのが見えた。気色ばみ、手に持つ杯を音を立てて置 く。真澄の手で波々と注がれた杯からは、勢いよく置いたはずみに酒がこぼれて 翁の手を濡らした。
「それはどいうことかね、真澄くん。紫織を愚弄するとさすがのわしも穏やかでは おられなくなるぞ」
 最愛の孫を成り上がり者の養子ごときに馬鹿にされたのだ。いつまでも人のよ いじじいの真似などしてはいられない。一体どんなつもりか知らないが、もしも婚 約破棄をちらつかせることで、結婚後に始まるであろう大都と鷹通の企業間の軋 轢において己が有利に立とうなどと小賢しいことを考えているのなら今のうちにそ の思い上がった鼻っ柱を叩き折ってくれよう。老人の目からは真澄を射殺さんば かりの眼光が放たれていた。
 だが、真澄とてここでおめおめと退くわけにはいかない。まさにここからが正念 場なのだ。
「まさか。紫織さんはぼくにはもったいないほど美しく、洗練された素晴らしい女性 です。愚弄などするはずがありません」
「それならば一体どういう理由で紫織との結婚を断るのだね?」
 一旦怒りを納め、老人は用心深く問い質した。我が孫ながら紫織は見目も麗し く品もあって差し出がましいところもない賢く素直な女だ。鷹宮の後ろ盾などなくと も充分に世間の男共が夢中になって然るべきだろう。それなのにこの男はそんな 紫織と婚約にまで漕ぎ付けた幸運を自らあっさり捨てようと言うのだ。その考えて いることを探ろうと真澄の目を盗み見る目つきは、刺すように鋭い。
「深い理由などありませんよ。ただ、彼女は大都のためにはならないことがわかっ ただけです。ぼくは昔から大都のためになる女性と結婚すると公言してきました からね」
 飄々と言ってのける真澄だが、翁の気勢が削がれることはない。その態度がか えって火に油を注ぎ翁怒りを増すのだった。老人の目は怒りに爛々と輝き、感情 のにじむ怒声を吐く口からは唾も飛ばさんばかりの勢いだ。だがそんな様を見て も萎縮することなく、むしろ真澄は“いいぞ”と嬉しく思った。相手は感情をコント
ロールできなくなってきている。重大な対決の場面では、冷静さを失った者に勝 利はない。今、この場を支配しているのが自分であること知り、翁との闘いでの勝 利を予感した真澄だった。
「貴様、言わせておけば抜け抜けと!!いい加減にせんかぁっ、この小僧め!!」
 とうとう翁の怒りが爆発した。だが真澄は一向気にせず、涼しい顔でさらりとそ の怒号をかわす。そして、ついと顔を下に向けたかと思うとスーツの身頃を開き手 を差し入れると、中から一葉の写真を取り出した。
「この男をご存知ですね」
 食卓の上に置いて指し示す写真には、二人の男が喫茶店と思われる店内で小 さなテーブルに向かい合っている座っている姿が明確に写し出されていた。思わ ず目を見張ってその写真を見つめる鷹宮翁。途端、明らかにその表情は狼狽に
よって曇った。
「こ・・・、こんな男などわしはし・・・」
「知らないとは言わせませんよ」
 咄嗟に出かかった弱々しい嘘。それをさせまいと真澄は、現実を老人に突きつ ける。
「この手前の男は、あなたの秘書じゃないですか。しかも、表には出せない裏の 仕事、汚い仕事を一手に引き受ける、言わばあなたの懐刀だ。勿論、このことを 知るのはぼくだけじゃない。ある程度業界の事情に通じている者には、彼の存在 は周知の事実です」
 冷たいまでの厳しい眼差しでその目を睨みつけながら相手に認めさせようと語 る。翁は「うぐ」などと意味のない言葉を発しているが真澄の言葉をあからさまに 肯定するつもりはないようだ。そんな程度のことはとうに予想していた。慌てること なく更に言葉を続ける。
「この場で認めなくても構いませんよ。ただ、否定すればあなたが哂われるだけで すがね」
 そう。そんなことは今は問題ではない。問題にすべきなのは・・・。
「どうしても認めたくないと言うのなら、まぁ、いいでしょう。ただ、問題はこの男が あなたの秘書かどうかではなく、この向かい側に座る男なのです」
 駄々っ子に言い聞かせるように真澄は、大仰な仕草でその写真の男を指で指し 示しながら話を続けた。
「こちらの男は、あなたもよくご存知の“国会のドン”とも呼ばれる政治家の第一秘 書ですね。勿論、彼のこともあなたは知っているはずだ」
 裏は取ってある。政治家本人ともこの秘書とも、パーティーなどで年に数回顔を 会わせているのだし、プライベートでも彼らとは料亭での食事やゴルフなども共に している。それらのことにはいくらでも証言できる人間を揃えられるのだ。翁もその ことはよくわかっているのだろう。ようやく落ち着いたかと思うとフン、と鼻で笑うよ うに荒く息を吐き、投げ捨てるように真澄に言って寄越した。
「この程度のものが貴様の切り札と言うわけか。それがどうした。こやつらとて互 いに知らぬ同士ではあるまい。喫茶店で話すこともないとは言えんだろう」
 開き直りか。真澄はほくそ笑む。もうこうなったら勝ったも同然だ。真澄はニヤリ と笑いながら更に内ポケットから封筒を取り出した。





「そんな戯言を、この写真を見た後でも言えますか?」
 真澄の手から投げ出された分厚い封筒。中には一体どんな爆弾が入っていると いうのか。精一杯の虚勢を張って老人は鷹揚な態度でその封筒を取ると封を開 ける。中には何十枚と言う写真が入っていた。その写真を一枚一枚確かめる。微 妙に角度を変え写された写真。それらには、鷹宮の秘書が分厚く大きな角封筒を 政治家の秘書に渡しているところ、相手が受け取っているところ、中を確認してい るところなどがはっきりと写し出されていた。どうやって撮ったのか、なんと封筒の 中身まで一部分ではあるが写りこんでいるものもある。更にはその部分だけを拡 大したものまで。愕然とする老人。
「こ・・・、こんな写真をどうやって・・・」
 一瞬声が震えた老人に、真澄は余裕の笑みを浮かべながら答える。
「なに、蛇の道は蛇と言いますからね。懐刀を忍ばせているのは、なにもあなただ けではないってことですよ。もっともこちらの懐刀はそう簡単には割れませんが ね」
 翁は怒りのためか、骨ばった体をわななかせながら写真に見入っている。その 怒りが誰に向いているものなのか真澄にはわからない。自分に対してなのか、秘 書に対してなのか、それとも彼自身に対してなのか。
「これはどう見ても鷹宮から国会議員への贈賄です。しかも調べてみればあなた からのこの不正な金は海外にまで及んでいるじゃないですか。例えば数人のアメ リカ上院議員とか・・・。こんな危ないことをやっている企業と係わり合いになること はできませんからね。婚約を解消したい理由の一つはこれです」
 悪びれる様子のない真澄に、翁の怒りは再び爆発する。
「貴様、こんなことをしてただで済むと思っているのか?貴様の父親には、あれが 若い頃さんざん世話をしてやったというのに、この恩知らずめ!そもそも貴様とて 代議士の中田とか言う男と付き合いがあろう。わしが知らぬと思っているのか!?」
 もう、完全に真澄のペースに巻き込まれていることに苛立つ翁は何とかして自 分のペースに戻そうと真澄を恫喝し始めた。
「中田代議士と繋がりを持っているのは義父ですよ。ぼくは一切タッチしていな い。仕事のためなら、かなり悪どいこともやってきましたが、さすがにぼくはそこま で腐っちゃいません」
「大都など、あんな企業はいくらでも潰してやるわ」
 その言葉に真澄はくくっ、と忍び笑いを漏らした。我慢しきれない、と言った風情 でニヤニヤと笑い続けている。
「えぇ、どうぞ。かまいませんよ。いくらでも潰してやって下さい。ぼくにはもう、守り たいものは一つしかないのでね」
 真澄の言葉を信じられないような面持ちで聞いている鷹宮翁。最もダメージを与 えると思っていた脅しが効かなかったのだ。
「それにしても、よくこれだけの汚職が今まで誰にもバレずに済んだものだ。今ま で誰も嗅ぎつけた人間はいなかったのですか?」
 真澄の口調は、まるで天気の話でもしているかのように軽い。
「そう言えばそんなようなことを嗅ぎ回っていた野良犬が2〜3匹おったな。まぁ
もっとも、その後奴らには二度と会う機会がないのでどうなったのかはわしは知ら ん。案外どこぞで事故にでも巻き込まれておるのかも知れんて」
 ようやく自分のペースに持ち込めそうな予兆を感じて老人の顔にもわずかに笑 みが戻ってきた。目の前の真澄を見据えて最後の言葉を吐き捨てる。
「せいぜい貴様も気をつけることだな。人間、明日の命もわからぬものよ」
「それは脅しですか?」
 勢いを盛り返した鷹宮翁に恐れることなく真澄が尋ねる。
「なに、単なる忠告じゃよ。年を取ると老い先短いせいか他人のことまで心配にな るものじゃ」
 今やすっかりこの場を自分の支配下に置けたと満足しているのか、老人は真澄 の様子に恐れがないことに気がついていないようだ。だがよく見れば真澄の顔に はまだ先ほどのニヤニヤ笑いが張り付いたままだった。
「ご忠告はありがたく頂戴しておきましょう。ぼくも命が惜しいのでね。さて、それ ではぼくの方でも一つご忠告をいたしましょうか」
 真澄のニヤニヤ笑いは、今や不敵な表情に変わっていた。
「もし万が一ぼくの身に何かあれば、これらの写真、録音された会話の一部始 終、ビデオまで一切合財が各新聞社に配信される手筈になっているんです。世界 中に散らばるあなたのグループ傘下の企業があるところ、全ての新聞社にね。ぼ くがそういったところに手も回さずにあなたと対決するとでも思っていたのです か?」
 そこまで言うと真澄はスーツの胸のポケットに手を伸ばし、中から薄型の携帯電 話を取り出した。
「それに、ここでの会話は全てこの携帯から部下に送ってあります。彼は会話の 全てを録音していることでしょうね。もしぼくに万一のことがあれば、この会話も一 緒に送られます。あなたはますます不利になるわけだ。大切なお孫さんを悲しま せたくなければ、ここはぼくの申し出を黙って受け入れて下さる方が賢明かと思 いますが?」
 それだけ言うと、もう用件は終わったとばかりに真澄は立ち上がり、襖を開けて 廊下に出て行こうとした。その真澄を、脱力し、その後姿を見ようともせずに翁が 静かに声を掛け呼び止める。
「待て。一つだけ教えてくれ。さっき、これが理由の一つ、と言ったな。他に理由が あるのか?」
 真澄は、老いて敗北を喫した老人を哀れむこともなく答えた。
「ありますよ。これよりももっと大切な理由がね」
「それはなんだ」
 本来なら一刻も早く真澄にはこの場を去ってもらいたいと思っているだろう。だ が、聞かずにはおられない。一体何がこの若造をここまでに駆り立てるのか。そ の理由をどうしても知りたいのだ。そんな翁に、真澄は最後の言葉を投げかける。
「あなたにお教えするつもりはない。まぁ、いずれわかることでしょうがね」
 それから急に真面目な顔になったかと思うと失礼しました、とだけ告げてあとは 一度も振り返らずに帰って行った。


 翌日、鷹宮翁から真澄に、今回の婚約解消の申し入れを一旦断った上でこちら から改めて解消したい、との申し出が文書を通してなされた。真澄は快諾し、この 婚約はこれをもって綺麗に解消されてしまったのだった。