Day Dream 3




朝の眩い光、懐かしい香りと共に真澄は目が覚めた。
ご飯に味噌汁、玉子焼きに焼き魚。
遠い昔、母が朝食に並べてくれた、あの懐かしい情景。
それがそのままダイニングテーブルに再現されていた。
「あ・・・っ、起こしちゃいました?うるさかったですか?」
マヤがキッチンから顔を出した。
煌く朝日に負けないマヤの笑顔が、真澄の心にも光を差し込んでくれた。
「・・・おはようございます・・・」
彼女は、はにかみながら真澄に声を掛ける。
「・・・あっ、ああ、おはよう・・・これは・・・君が作ってくれたのか?」
「速水さんはパンのほうが良かったですか?でも買い置きがなくって・・・とりあえず、冷蔵庫にある
もので作ってみたんですが」
「いや、和食も好きだよ」
「よかったぁ、起こして聞こうかなって思ったんですけど、あんまり気持ち良さそうに眠ってたから・・・」 エプロン姿のマヤは初々しく、真澄は唇の端に笑みを浮かべた。
「俺はパジャマ、君はエプロン姿。まるで本当の新婚夫婦みたいだな。おはようのキスでもしよう か?」
「じょ・・・冗談はやめてください。早く着替えてきてください、先に食べちゃいますよ」
マヤは真っ赤な顔をついっと横に向け、キッチンに駆け戻った。
真澄は笑いを噛み殺しながら、自室に向かって行った。
 

向かい合って朝食を取る。
たったそれだけの事でも、ふたりはこの上なく幸せな気持ちになった。
「お味噌汁・・・辛くないですか?玉子焼き、甘すぎませんか?」
マヤは時折箸を止め、心配そうに真澄の表情を窺う。
「ちょうどいいよ。とてもおいしい」
そんな彼の返答に彼女はほっとし、また箸を進めた。
本当は何度か失敗し、作り直していた。
彼の好みの味など分からない。しかし、少しでも美味しいものを食べさせてあげたかった。
愛する人に何かをしてあげられる。それが高揚感を生み、幸福感に繋がってゆく。
「幸せ・・・」
マヤは自分の呟きに気付き、慌てて口を押さえる。
「偶然だな。俺も同じ事を考えていた。君といるとほっとするよ。こんな幸せな気持ちになるのは
いったい何年振りだろう・・・」
マヤが自分の為の何かをしてくれる。
作ってくれた料理も、どんな高級料理店のものとは比べようもなく美味しく感じる。
食事は気分が味に出るとは本当だ。
穏やかな空気が流れる食卓で、ふたりはしばしの幸福感に浸っていた。
 

きちんとスーツを着込み、真澄が自室を出る。
マヤが玄関まで見送ってくれた。
「なるべく早く帰るよ。そうだ俺の部屋にベッドを入れるつもりだ。今日中に届くように手配するから
頼むよ。・・・君は・・・ここにいてくれるんだろう?・・・」
真澄は心に浮かんだ不安を、思わず口に出す。
ここでいくらふたりが夫婦といっても、実際には他人同士なのだ。
しかもマヤは彼を嫌っているはずだ。
彼が帰って来た時に、ここに居るという保障はどこにもない。
最近、前ほど食って掛かられることも、露骨に嫌悪感を表すこともなくなったが、彼女の真意など
分かるはずもない。いやになって出て行かれても、彼には止める術などなかった。
「あたし・・・ここに居てもいいんですか?速水さんを、待っててもいいんですか?」
「当たり前だ。君は俺の奥さんだろう?」
「それはこの世界のあたしの話です。あたし達は・・・違うじゃないですか・・・あたしが速水さんの
奥さんなんて・・・ありっこない」
マヤの瞳が不安と困惑で揺れる。
「でも・・・速水さんが迷惑でさえなければ・・・ここに居させてください。あたしで出来ることなら、
何でもしますから・・・」
「君にしてもらいたいことは、たったひとつだ。俺の側にいてくれればいい・・・さっきも言っただろう? 君といると、ほっとするよ」
「あたしは安定剤ですか?」
マヤがくすっと笑う。少しは安心したようだ。
直後、インターホンが鳴る。真澄付きの運転手が迎えに来たようだ。
「それじゃ、行ってくるよ」
「あ・・・いってらっしゃい・・・あの・・・お夕食は?」
「また君が作ってくれるのか?楽しみだな。勿論いただくよ」
お互いにぎこちない挨拶を交わし、真澄は玄関を出て行った。
残されたマヤはふっと溜息をつき、部屋を見回す。
彼が帰るまでに掃除をし、買い物にも行かなくては・・・
まるで本物の奥さんのような自分の発想に、自然に笑いが込み上げる。
早速マヤは、その弾む心を抑えつつ、朝食の後片付けにと取り掛かった。
−−待っててほしい、俺の側にいてほしい。
真澄の言葉のひとつ、ひとつを思い出す。生まれて初めて、目が眩む程の幸福を実感した。
今はひたすらに、真澄の為に自分が出来る事なら何でもしたいと、切なる願いに似た思いを一心に いだくマヤだった。
 

真澄とマヤ、ふたりの奇妙な同居生活が始まった。
真澄は、まだ慣れぬ会長職を懸命にこなしつつ、少しでも早くと帰宅する。
マヤは家事をこなしつつ、日課の発声練習やトレーニングなども怠らない。
彼が帰ると、共に夕食を取る。
時には真澄の帰宅が遅くなることもあるが、それでも彼は必ず自宅で食事をする。
彼は彼女に、たったひとりきりでの夕食を取らせたくはなかった。
昼間、彼の居ない間、どうして過ごしているのだろう。
気掛かりで堪らず、かといってどうしてやればいいのか、皆目見当も付かなかった。
元来、物欲のないマヤのこと、真澄がいくら気晴らしに買い物にでも、と言っても彼女は必要な物
以外は買ってこない。
一通りの家事を済ませば、後は空虚な時間が流れていくだけだった。
命ともいうべき演技を休養という言葉の元、封印されていた。
有り余る時間は、いやでも現実と向かい合うチャンスを、幾度もマヤに与えてくれた。
やがてマヤは昼間、部屋にある芝居のビデオやDVDを、貪るように観るようになっていった。
その中から気に入った場面や、過去に自分が演じたものをリビングで狂ったように演じた。
そうすることで心の平静を保っていた。
いくら真澄と一緒に暮らせるという、この状況に喜びを見出しているとはいっても、それでもひとりきり になると、不安が波のように押し寄せてくる。
そんな感情を追い払うように、マヤは孤独な一人芝居に没頭していったのだった。
真澄に迷惑を掛けているのでは?本当は疎ましく思われているのでは?
そんな思いも、一緒に追い払おうとしていた。
(あたしが本当の速水さんの奥さんだったら、こんなに不安に怯えることもないの?そんなあり得な い・・・速水さんには婚約者が、紫織さんがいるじゃない。じゃ、あたしは何故ここにいるの?あたしが この世界にいる理由があるなら、誰か教えてほしい・・・)
真澄が想いをくれるなら、例えどんな世界でだって生きてゆける。
たったひとつの自分の想いを、受け止めてくれるなら、どんな現実をも耐えてみせる。
いつの間にか観ていたビデオも終わり、ただ虚空を映し出すのみの画面を、陽が傾くまでぼんやりと 見つめるマヤだった。
 

それでも真澄が帰宅すると、想いは彼一点に集中し、怯える心も霧の中に消えていく。
「ごめんなさい、ハンバーグ・・・焦げちゃった」
いつもの夕食時のいつものリビング、すまなさ気にマヤは肩を落とした。
せめて家事くらいでもいい、彼の役に立ちたかったのに。不器用な自分が恨めしかった。
「大丈夫だよ、これくらい。俺の為に一生懸命作ってくれたんだろう?おいしいよ」
「でも、あたしの料理って庶民的すぎて、きっと速水さんの口には合わないですよね。それに上手
じゃないし・・・」
「そんなことはない。君の料理はどれもみんな懐かしい味がする。子供の頃に食べた母の味だ・・・」 「速水さんのお母さんって、どんな人だったんですか?」
唐突なマヤの質問に、真澄は一瞬、躊躇する。
そんな彼の表情を読み取ったマヤは、してはいけない質問をしたのだと戸惑い、思わず両手で口を 覆い、「ごめんなさい」 と俯いた。
それ程過剰な反応をしたつもりはなかった真澄だったが、彼女は何かを察したのだろう俯いたまま、 謝罪の言葉を繰り返し呟き続けた。
真澄はそんなマヤの切ない心情にほだされ、やがてはぽつりぽつりと話し始めた。
「いつも微笑みを絶やさない、優しくて、どんな時も俺のことばかり考えていた人だった」
「いい・・・お母さんだったんですね」
「そうだな・・・」
少し辛そうな顔をする真澄に、それ以上何も聞けずマヤは焦げたハンバーグを箸で突付いた。
「すまなかった・・・」
「速水さん?」
突然謝る真澄に、マヤは訳が分からず、ただうろたえるだけだった。
「君の母親を殺したのは・・・俺だ」
苦しそうに呟く真澄は拳を強く握り、視線をマヤから外す。
「本当なら君はお母さんと、もっともっと思い出を作っていけたはずだ。だが俺が君から母親を奪っ た。今まで、きちんと謝ったことがなかった。俺を今でも許せないのは分かる、だが謝罪の言葉だけ は聞いて欲しい。・・・すまなかった・・・」
テーブルに頭を擦り付けんばかりの真澄は、肩を震わせていた。
いつも尊大で、自信に満ち溢れている彼とは対極の姿だった。
マヤは切なさに心乱され、我知らず真澄に駆け寄る。
「やめて、速水さん、あたしが悪いの。最初に母さんを捨てたのは、あたしなの。お芝居がしたい、
その一念だけで家を、母さんを捨てて飛び出したの・・・本当は分かっていた。でも辛くて辛くて、
誰かのせいにしたかった。母さんに連絡も取らなかった、だから母さんの居場所も分からなくなって あんな事になったの・・・あたしが悪いの・・・あたしが・・・」
こぼれる涙は、やがて嗚咽に変わる。
マヤが母の死を、そんな風に受け止めていたとは、思いもよらなかった。
いつも真澄に対して拒絶の言葉だけを発していた、その彼女の口からこぼれる彼への労わりの
言葉。
真澄は、ほんの少し気持ちが楽になった気がした。
マヤのたった一言で、自分はこんなに幸せになれるのだ。
「俺は君を泣かせてばかりだな」
真澄の指が、ついっとマヤの涙を拭う。
やがてその手はマヤの背中に回り、すっぽりとその胸に彼女を包み込む。
「もう恨んでも、憎んでもいない・・・だからそんなに苦しまないで下さい。速水さんが苦しむと、あたし も苦しい・・・」
泣きじゃくるマヤの背中をただ無言でさすってやる、そんな行為にも楽になった心の反面、滲み出る 切なさが零れ落ちる。
もし彼女の中に真澄を許す感情が芽生えたとしても、それが果たして愛情と転じるのか?
今更ながらに、とことん臆病な自分自身を見出し、気付かれぬように溜息を漏らした。
マヤは真澄の腕に抱かれながら、心の奥から湧き上がる感情を持て余す。
嫌ってなどいない、むしろ逆なのだと、深く愛しているのだと告げることが出来るのなら。
押し殺した想いが、この腕から彼に伝わればいいのに・・・
あなたがいれば、あたしは他には何にもいらないのに・・・
彼の背中に這わせた手に、彼女は力を込めた。
 

夕食後、ふたりは並んで後片付けをしていた。
「速水さん、あたしがやりますから、座ってて下さい」
マヤの制止を振りきり、彼は率先して彼女の手伝いをする。
別に真澄は彼女に家事をして欲しくて、一緒に暮らしている訳ではない。
ただ側に居てくれれば、それだけで良かった。
確かにマヤにあれこれ(失敗はあるが)世話を焼いてもらうことは嬉しいが、それだけではないのだと 分かってもらいたかった。
ただ、ひたすらに愛していると告げたかった。
しかし、はっきりした拒絶を聞くのが怖く、宙ぶらりんの感情を持て余していた。
この生活を手放したくなかった。
この暮らしを失うということは、ひいてはマヤをも失うことになるのだから。
そんな真澄の心の内など知る由もないマヤ。
風呂上りのマヤが、ソファーに座る真澄の隣に無造作に腰を下ろす。
体中から立ち昇る、甘い石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。
こんなに無防備に自分に近付く彼女を、少し恨めしく思う。
真澄もただの男なのだ。
愛する女が側にいても、その唇に触れることすら許されない。
まるで真綿でゆっくり首を絞められるような、そう、拷問だった。
最近、夜が妙に長く感じる。
何度、夢の中で彼女を抱いたことだろうか。
このままでは、遠からず無理やりにでも抱いてしまうかもしれない。
愛を告げることすら出来ないのなら、いっそ距離を取ったほうがいいのか。
「速水さん、どうしたんですか?何だかぼんやりして・・・疲れているんですか?」
とりとめのない考えに苛まれていた真澄の目の前に、心配そうなマヤの顔があった。
「熱でもあるんですか?」
そう言いながら、彼女は彼の額に右手を当てる。
(小さい手だな・・・)
真澄は無意識にマヤの手を引き寄せ、自分の膝に座らせた。
「はっ、速水さん?」
(このくらいのイタズラなら許されるだろう)
真澄は彼女の、まだ濡れている髪に指を滑らせる。
「君が慰めてくれれば、元気が出るかもしれないな」
「慰めるって・・・どうすればいいんですか?」
マヤは少し怯えた瞳の色で、それでも真澄を真正面から見つめ返していた。
「さあ?君ももう大人だろう?自分で考えてみるんだな」
彼女は落ち着きなく目をきょろきょろさせ、考えあぐねているようだ。
その間も真澄の指は彼女の髪を弄び、その体を少しづつ自分に引き寄せる。
マヤは彼のその行動に戸惑いながらも、思い付いたように一言告げた。
「一晩・・・だけですよ・・・」
「えっ?」
「速水さん、もうお風呂終わってますよね。あたし髪を乾かしたら行きますから、先に行ってて
下さい。速水さんのベッドのほうが大きいですね。じゃあ、そっちで待ってて下さい」
唖然とする真澄を尻目に、マヤは彼の膝から飛び降りると洗面所に向かっていった。
 

訳も分からず寝室に追い立てられた真澄は、呆然と部屋の真ん中に立ちつくしていた。
マヤの言葉の真意など理解できるはずもなく、男に慣れた女じゃあるまいし彼女に限って、という
思いが頭をかすめるだけだった。
「速水さん、ベッドに入っててよかったんですよ。もう寝るんでしょ?」
マヤが真澄の背後から声をかける。
「寝る・・・って、まさか君は俺と寝る気だって言うんじゃないよな?」
「え〜っ、そのつもりですけど・・・いけませんか?」
彼女はあっさり答える。
「君は意味が分かって言ってるのか?」
「意味って、だから速水さんが慰めて欲しいって言ったから・・・一緒に寝てあげようかと・・・」
真澄が聞かんとすることが彼女に伝わっているのか、ますます訳が分からなくなった。
「今日、お母さんの話をしてて、なんだか悲しそうだったから、たとえ大人の男の人でも甘えたい時も あるのかなって・・・あたしじゃお母さんの代わりにはなれないだろうけど、せめて添い寝くらいだった らと、そう思って・・・だめですか?」
「そっ、添い寝?俺にか?」
「そうですよ。なんかおかしいですか?」
身構えていた体の緊張が一気に解れる。
彼女のあまりにも突飛な発想に真澄は徐々に笑いが込み上げ、しまいには腹を抱えて笑い出した。 「速水さん?あたし笑わせること言いました?」
真澄は、息も絶え絶えに笑い続ける。
「速水さん!!」
「いや、すまない。しかし、大都の速水真澄に添い寝してやろうなんて、そんなこと考えるのは君くら いしかいないな。まったく君は飽きない子だよ」
「元気になったみたいだし、もういいですよね。あたし、自分の部屋で寝ます」
マヤはぷりぷりしながら、真澄の寝室から出て行こうとした。
「いや・・・やっぱり、付き合ってもらおう」
真澄はそんな彼女の腕を掴み、軽々と抱き上げ自分のベッドに座らす。
「レディ・ファーストだ。君から先にベッドに入ってくれたまえ」
マヤは自分から言い出した事ゆえ、今更引き返せず、黙ってベッドに横たわる。
その後を追うように、真澄がベッドに入ってきた。
ぎしっとベッドが軋む音に、マヤは胸がどきりとなる。
彼女は彼に背中を向け、必死に高鳴る鼓動を押さえていた。
そして改めて思い知った。
自分はなんて無防備でバカだったのか。
男性をベッドに誘うなど、普通は別の意味があるはずなのに。
「背中を向けていたら、添い寝の意味がないぞ」
真澄の腕が、マヤを振り向かせる。
それと同時に、彼女はその腕にすっぽりと包み込まれた。
「君は温かいな、それにとても柔らかい。よく眠れそうだよ」
「あっ、あたしは抱きまくらですか?それともカイロ?精神安定剤?」
「そうかもしれない、きっと全てに該当するよ。そうだなこれから毎晩、こうしてもらおうかな」
「じょ、冗談でしょ?それに一晩だけって言ったじゃないですかぁ」
「それは残念だ。でもこの頃、眠れなくてね。このままではストレスの上、過労死するかもしれない。 君はそれでもいいのかな?」
「そっ・・・それは・・・困るかもしれません・・・」
「じゃあ、決まりだな。これからも抱きまくら、よろしく」
軽口の受け答えが続くうち、マヤは少しづつリラックスしてきた。
真澄にしっかり抱きしめられ、夢見心地になる。
「速水さんも・・・あったかいですよ」
「そうか?心は冷たいのに、とか思ってるんじゃないか?」
「そんなこと・・・ないです。速水さん、こっちに来てから優しい、本当に優しいです。あたし、よくして
もらってると思ってます」
「そうか・・・それじゃ、俺の本当の奥さんになるか?」
「えっ・・・?」
マヤは夜目でも分かるくらいに顔を赤らめ、ベッドから体を起こし、真澄を見つめる。
「冗談だと思っているのか?俺は至極、真面目だが。君といると飽きないし、これからきっと楽しい
人生が送れそうな気がする」
今度こそマヤは、顔を真っ赤にして目を見張る。
「まあ、考えておいてくれ。それじゃ、寝ようか」
真澄はふたたびマヤを腕に閉じ込めると、瞳を閉じた。
(やっぱり、冗談じゃない)
彼女はきりきりと痛む胸を、ぎゅっと押さえた。
しかし、愛するひとの胸の中。その温かさには勝てず、うとうとしたかと思うと意識は眠りの淵にと、 急速に引きずり込まれていった。
無防備に眠るマヤの顔を見つめる真澄は、その愛しい姿に頬が緩んだ。
(冗談なんかじゃない・・・君を俺の本当の奥さんにしたいという気持ちは・・・君への想い、幸せに
したい、大切にしたい気持ち・・・みんな俺の本音なんだが・・・)
それでも真意を相手に分かってもらうのは、単純なようで非常に難しい。
今は冗談めかして伝えるくらいの術しか、彼にはなかった。
(これぐらいは許してくれよ)
真澄は眠るマヤの唇を、そっと奪う。
社務所の夜を思い出す。
あの時、怯える彼女の姿に、思わず心にもないことを言った。
そして狂ったようにマヤを求める気持ちを、なんとか押しとどめた。
本当は抱きたかった。
抵抗する素振りを見せない彼女を、思うさま抱いてみたかった。
でも今となっては、あの時そんなことをせずによかったと思っている。
自分を愛し、全てを受け入れてくれるまで待つほうがいい。
心が、まるで振り子のように揺れ動く。
四面楚歌の恋だった。
(だが・・・今はこの温もりを味わっていたい・・・)
どんなに想いが通じなくても、どんなにこの心が傷付き、たとえ血が吹き出そうとも、所詮はマヤを
忘れるなど、不可能だった。
この腕で眠る何より愛しい存在が、夢、幻でないことを確認し、再び強く抱きしめた。
たった今、かき消すようにいなくなっても、きっと地の果てまでも追い求め、探し出そうとするだろう。
(出口が見えない恋でもいい、この瞬間、君が俺の傍にいてくれるなら・・・)
真澄は彼女を抱きしめながら、やがて誘われるように眠りの淵へと引きずりこまれていった。
 

ふたりは次の日も、やはり一緒のベッドで眠りについた。
真澄は眠るマヤに口付けるのが、日課になっていた。
多少の後ろめたさはあるものの、その度に味わう安堵感を手放したくなく、一方通行の口付けを
送る。
子供じみた真似だとは分かっているが、自分の中にある純情な部分に何故かほっとする。
彼女の体の温かさに心底、安らぎを感じた。
(母の代わりにはなれないと言っていたが、なんのことはない充分君は安らぎを与えてくれる。そう、 慈愛という言葉がぴったりだな)
ふたたび、きつくその体を抱き寄せる。
「速水さん・・・?」
寝ぼけまなこのマヤが、不思議そうに見つめる。
「眠れないんですか?」
「あ・・・ああっ、少しな・・・」
「ひょっとして、あたし・・・蹴飛ばしたりしました?」
真顔の彼女に、思わず笑いが込み上げる。
「あたし、真剣に聞いてるんですけど?」
「すまない、大丈夫だ。君はいつも、お人形のように静かに眠ってるよ」
「ぐっ・・・なんかバカにされてるみたい」
「まさか、君と居ると安心する、これは本当だ。だから機嫌を直してくれ」
「別に怒ってなんかいませんよ。ただ心配なだけで・・・」
マヤは真澄の背に回した手に力を込め、その胸に顔をすり寄せる。
「速水さん、ずっとお休みもないし・・・体が・・・心配なんです」
「そうだな・・・君にも寂しい思いをさせているな。どこにも連れていってあげてないし、そうだ仕事を
早めに切り上げて観劇にでも行こうか?食事も外で取って」
「あたしは・・・速水さんの奥さんじゃないんだし、そんな気を使ってくれなくてもいい・・・そんな時間が あれば休養するか、速水さんの行きたい所で息抜きしてください」
突き放すようなマヤの物言いに、真澄は狼狽する。
「俺は君がいれば、それだけで息抜きになる。どうしてそんなことを言う?」
「速水さん・・・あたし・・・あたし・・・」
マヤの瞳からは、今にも溢れ出しそうな涙が浮かぶ。
疲れた表情を時折見せる真澄を、彼女は心底心配していた。
会長として慣れない仕事をこなし、帰宅しても自分がいて、きっと落ち着かないのだろう。
真澄は本当は限りなく優しい男だ。
もしマヤの存在が邪魔でも、本心ではどう思っていても、言い出せないのかもしれない。
自分がいる事で、真澄の負担になるのなら・・・
「やはり、俺と居るのは・・・イヤか?俺から・・・離れたいか?」
「違う・・・違うの・・・あたしには速水さんしかいない・・・あなたしかいないのよ」
真澄が想像した通り、ここでの彼女の頼りは彼しかいない。
そうでなければ、一緒にいるわけない。
最初から分かっていた事とはいえ、真澄にとって辛い現実だった。
愛情からではなく、自分は彼女の保護者のようなものだ。
それでも一緒にいてほしいと・・・そう願わずにはいられない。
たった一言が告げられない・・・
空回りする、お互いの想い。
「すまない・・・つまらないことを言ったな。でも君と出掛けたい気持ちは本当だぞ?それが気晴らしに なる。ぜひ、そうさせてくれ」
「・・・速水さん・・・あたしは、そこまであなたに甘えていいの?ホントにいいの?」
「君は俺に元気をくれる。これからも・・・側にいてくれ」
「・・・ありがとう・・・あたしも・・・速水さんの側がいい」
「チビちゃん・・・」
思いもよらず真近にある相手の顔に気付き、ふたりの動きが止まる。
自然に重なる互いの唇。
「・・・おやすみのキスだ・・・これで俺も、よく眠れる・・・」
硬直したままのマヤを、再度ベッドに引き入れると真澄は素知らぬ顔をし、すぐに寝息をたて始め た。
(キ・・・キスしちゃった・・・)
今度は彼女が、眠れぬ夜を過ごすこととなった。
 

翌朝、出社した真澄は気分爽快だった。
なにしろ、おやすみのキスに続き、いってきますのキスもマヤの唇に落とすことが出来た。
まるで初恋の初キスのあとのような、うきうきした心躍る気分。
三十路を過ぎた男とは思えないと、自分自身の所業に苦笑するしかない。
「会長、少しよろしいでしょうか?」
真澄の敏腕秘書、水城の一言で彼は現実に戻された。
最近では、会長と呼ばれるのにも慣れてきた。
「ああっ、かまわんが、なんだ?」
「例の件ですが、会長からのご希望やご指示があれば、お聞きしたいと思いまして」
「例の件?」
彼は皆目、見当もつかない。
「ええっ、会長とマヤさんのお披露目パーティーですわ。披露宴ではおふたりのご要望で内輪で、
ということでしたが、やはり大都グループの総帥のご結婚、このままという訳にはまいりません。
会長ご自身のご指示ではありませんか。会場のほうは、すでに手配済みです。後は細かい打ち
合わせが必要ですので」
「結婚披露のパーティーだと?」
「そうですわ。会社関係だけではなく、政財界の主だった方たちにも出席を賜るようにと・・・招待状 も、そろそろ発送しなければなりませんし」
(結婚のお披露目だと?俺はいいが、この不安定な状況に合わせようと必死なマヤに、これ以上の 重荷を負わせるのか?)
もし、ふたりが本物の夫婦なら、パーティーが苦手な彼女もそれを拒んだりはしないだろう。
それなりの覚悟を持って、真澄と結婚したのだろうが。
だが、彼のマヤは違う。
迂闊だった。この状況に酔って、周りが見えなかった真澄の手落ちだった。
ふたりだけの問題ではない。
特に真澄は責任ある立場。そう重責を背負っている。
確かに避けては通れない道だった。
「2・3日、待ってくれ。マヤとも相談してからだ。それまでは動かないでくれ」
「かしこまりました。しかしそうお時間もありません。お忘れではないと思いますが、予定では二ヶ月 後になっております」
「わかった・・・」
真澄は短く答えると、視線を書類に落とす。
しかし、頭の中は別のことでいっぱいだった。
(そろそろ・・・はっきりさせないとな・・・)
煙草に火を点けると、椅子の背もたれに身を預け目を閉じた。
「水城君、悪いがスケジュールを調整してくれないか」
 

真澄とマヤが同居生活を始めて、一ヶ月が過ぎようとしていた。