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祝杯 2
打ち上げの開放感に酔う人々の中で、麗と同じく明とマヤのやりとりを見つめている人物がいた。
グラン劇場の支配人、明の父親である。
彼は今までに何度となく、女性に手の早い息子に煩わされてきた。
何しろ興味を持ったなら、その女に恋人がいようといまいとお構いなしなのである。
くどいほどに迫り、やっと女を手に入れたかと思うと途端に冷めて、他の女に手を出す・・堂々巡りで
あった。
別れ話がこじれて、親である自分が決着をつけるハメになったことも一度や二度ではない。
明は女をオトすことに関しては一流なのだが、その後の収拾をつける能力は三流以下であった。
(だが・・)
支配人はニヤリと笑みを浮かべる。
今度の女はなかなか興味深い。
何といってもこの世で唯一、紅天女の上演権を手に入れている女なのだから。
幻の名作として何十年もの間、興行がなされなかった舞台。
その伝説を演じる権利を手にした北島マヤの立場は、他の女優とは一線を画していた。
「紅天女」
この演目はドル箱であった。
上演するというだけで話題となり、演劇などには普段縁のない人々までもを劇場へと出向かせる
吸引力を持っているのである。
明のヤツがうまくたらし込んで、うちで上演権を手に入れることができたら・・。
あのぼうっとした北島マヤ相手なら、それは簡単なことに思えた。
目的のモノを手に入れた後は、別に明が彼女自身を捨てたところでなんら問題はない―――
支配人の口からくつくつと笑い声が漏れた。
「マヤさん、約束してくれませんか・・僕とあなたの絆はこれからも続くと。
もしあなたという光を失ったら、僕はこれから闇の中を手探りで歩いていかねばなりません」
口先ばかりの歯の浮くセリフをぬけぬけと羅列し続ける明に、とうとうマヤの理性の糸が切れた。
「いい加減にしてくださいっ!最初から言っているでしょう?
私はあなたに興味はありません。その手を離してください!!」
高い声が室内に響き渡り、一体何事かと多くの視線が注がれる。
マヤは明の手を振りほどこうとしたが彼は離れるどころか背後に廻り、彼女を肩越しに抱き寄せた。
「ずいぶんつれないことを言うんだな? 照れ隠しにしても・・かわいくないぜ・・?」
紳士的であった口調が荒れたものへと突如変化する。
耳元にかかる息遣いにマヤは背筋がぞくっと粟立つのを感じた。
あまりの嫌悪感と恐怖に身体が強張り、動くことができない。
「いい加減にしないかっ」
「ちょっとあんたっっ!!」
団長と麗がそれぞれ足を踏み出した瞬間、明の腕はマヤの肩から離れ、宙に浮いた。
「嫌がっているのがわからないのか・・?」
低い・・まるで地獄から湧き出るような声だった。
体感温度がスッと20度は下がるような感覚。
万歳をするかのように挙げられた両手は、身体ごと床に叩きつけられた。
明の影から現れた男は氷のような冷たい視線を彼に投げた後、立ち尽くしている女優へと目を向け
る。
彼女の身体はカタカタと細かく震え、驚きのあまり大きく見開かれた瞳には溢れんばかりの涙が浮
かんでいる。
彼女は目の前の男の名を呼んだ。
「は・・速水・・さん・・どうしてここに・・?」
速水は一歩、二歩とマヤとの間を詰め、利き手で優しく彼女の肩を包み込んだ。
「青木君が連絡をくれたんだ。
君にまとわりつくしつこいハエがいるから、でかい釘を刺してくれとね。
こちらに着くのが遅くなって済まなかった。嫌な想いをさせてしまったな」
「ううん・・ううん・・」
緊張が一気にとけたマヤは、ぼろぼろと涙を零し続けた。
「あ・・あんた、一体なんなんだよっ」
足元に転がっていた男が立ち上がりながら、速水に吼える。
「あいにくお前のような輩に名乗る名など持ち合わせていないな」
淡々と発するその言葉には、温度というものが全く感じられない。
聞いているだけでピシリと凍り付いてしまいそうだ。
及び腰になりつつも生来の負けん気で更に噛み付こうとする明を、父親が慌てて制する。
「やめろ、やめるんだ!それ以上、何も言うな!!」
顔をしかめる息子を無視して、支配人は速水へ一礼をした。
「速水社長、愚息が大変失礼なことを致しました。
大都芸能の所属女優である北島さんに不愉快な思いをさせてしまったことは、申し訳なく思っていま
す。ですが、今回のことは息子なりに北島さんへの想いが募ってしてしまった結果なのです。
私に免じて許してやってはもらえないでしょうか」
速水に訴えながらも支配人の頭にはある疑問が浮かんでいた。
このやり手で知られる芸能社長は看板女優の北島マヤに言い寄る男がいるのを知り、スキャンダル
になる前に手を打ちに来たのだろう。
だが、わざわざ社長がこなくても、マネージャーなり、他の営業なりを派遣すれば終わる話ではない
のか・・? なぜ速水社長が直々にここへ赴いたんだ・・?
訝しげな表情を浮かべる劇場の責任者に速水は一言、言い放った。
「許すわけにはいかないな」
「えっ?」
思ってもみない言葉に、支配人は一瞬何を言われたのか理解できず、言葉を無くす。
「あなたの息子さんの行動を大目に見ることはできないと言っているのですよ。
それにあなたは勘違いをしている。
今日、私は大都芸能の社長としてこの劇場を訪れたのではない」
速水は一度言葉を切り、腕の中にいるマヤを愛おしげに見つめた。
そして再び目前の男にに目をやり、彼にとっての真実を語る。
「私はここにいる北島マヤ・・彼女の婚約者として、最愛の恋人を迎えに来たのですよ」
シン・・と静まり返った場内を、静寂が支配する。
誰もが今耳にした言葉を再度心の中で反復していた。
キタジママヤのコンヤクシャ・・サイアイのコイビト・・
それは速水の腕に支えられているマヤにしても同様であった。
彼女は顔を上げ、信じられないといった表情を彼に向ける。
「もう、いいんだ・・マヤ。辛い思いをさせたな」
速水は目を細めて優しく囁いた。
「私とマヤは近いうちに婚約発表の会見を開く予定です。
ですから、息子さんが彼女に好意を寄せていたとしても、結局諦めることになりますのでね。
今後一切マヤには近づかないでいただきたい」
速水は一見穏やかに語っていたが最後の一言には有無を言わさぬ強い力が込められており、これ
こそが彼の譲ることの出来ない、正真正銘の本音なのだと誰もが悟らずにはいられなかった。
思いもかけない展開に混乱しつつも、退場するのが吉とばかりに支配人は「わかりました」とだけ
告げると、己が息子を引きずるようにして部屋を出て行った。
「お、おい、親父!待てよ、待てってば!!」
腕を取られ、足を縺れさせながら、自分を引っ張て大股で歩く父に明は抗議の意思を示す。
「俺はまだ引くつもりはないぜ?なんだって勝手に決めちまうんだ!!」
「少しは身のほどを知れっ!」
息子の非難の声を支配人は一喝で打ち消す。
「大都芸能と言えばこの世界では一流の芸能社だ。だが問題はそこではない。
あの速水社長はあんな柔らかげな容貌をしてはいるが、ビジネスに関しては冷徹な判断を下す企業
人として有名だ。
いいか、もしあの男が本気を出せば、うちのような個人劇場など明日には跡形もなく綺麗な更地にな
っているだろうよ。」
まさか、と笑い飛ばそうとした明だが、父親の血の気の引いた表情にそれが誇張でも何でもないこと
を知る。
「あんたとは格が違うんだ」
青木麗の言葉が頭をよぎる。
明はただ、沈黙するしかなかった。