ギフト 1
朱色の判が押された数枚に渡る契約書。
すでに10pほどの書類が閉じられているファイルを開き、一番上へとそれを置く。
留め金にセットするとパチン・・という金属質の音が室内に響き渡った。
「ようやくメドがついたわね」
この一年半もの常軌を逸した業務を思い起こし、水城はホッと溜息交じりの息をつく。
ただでさえ「暇」という言葉は砂の欠片ほども存在しない大都芸能の秘書室であったが、このところ
のスケジュールは殺人的ですらあった。
有能な秘書と名高い水城ですら悲鳴をあげたくなるような・・いや、彼女だからこそ乗り切ることがで
きたといえるだろう。
深夜に及ぶ残業は当たり前、さすがに社に泊まることはなかったものの、書類を自宅に持ち帰って
自ら課したノルマをこなすことも決して珍しいことではなかった。
なぜこれほどに度を越えた仕事量をこなすことになったのか。
その原因は明確であった。
彼女の上司、大都芸能社長速水真澄の個人的な事情によるものである。
それは第三者から見れば極めて奇怪な、狂気沙汰とさえ捉えられても仕方のない行動によってもた
らされた。
彼は以前、誰もが羨むような、これ以上は望み得ないほどの婚約者を得ていた。
それは日本でも1、2を争う大財閥、鷹宮家の直系の孫娘。
真澄の義父、英介の保有する大都グループなど、鷹宮の前では並ぶべくもない。
その結婚によってもたらされる恩恵によって、大都の企業としての発展はもとより、真澄自身にも地
位、財産、名声など様々な物が与えられることが当然のように約束されていた。
しかもその孫娘は艶やかな蘭の花のような美しさを備えた「深窓の令嬢」なのである。
冷徹な仕事の鬼と称され、自身も常日頃から「大都芸能のためになる女性を選びますよ」などと豪語
していた速水らしい、あまりにもできすぎたような婚約であった。
だが、誰が想像したであろうか。
真澄がその恵まれた政略的婚約を解消するなどとは。
そう、それを予測し得たのはただ二人だけ。
真澄の腹心の部下である水城と・・当の婚約者の鷹宮紫織だけであった。
結婚式を目前にしての破綻劇。
その結果、大都グループは大混乱に陥った。
鷹宮との提携を念頭に置いた数々のプロジェクトは白紙に戻され、様々な軋轢が生じた。
更に顔を潰された鷹宮側の怒りは凄まじく、様々な圧力をかけてきたのだ。
スポンサーの突然の撤退、俳優の引き抜き、予定されていた劇場のキャンセル・・様々な形でそれ
は表れた。
「なぜ、このようなことになったのか」
その対応に東奔西走した大都の社員達は皆、一度は考えたことであろう。
トップの結婚により限りなく開けていたはずの会社の展望が、一夜にして奈落の底へと落ちたのだ
から。
それも偏えに社長の乱心とも思える行動によって、だ。
直接口には出せぬものの、不満は限りなく募るばかりである。
内からも外からも、滅びの芽が芽吹いていた。
だが、その危機は速水自身によって回避される。
彼は己れが招いた災厄を少しでも取り除こうと、精力的に行動したのである。
大都のダメージが最低限に押さえられるよう、他会社の吸収合併を行って損失の補填をし、社内で
は採算の取れない部門は潔く切り捨て、別のプロジェクトを立ち上げた。
また、トラブルが起これば速やかに対応するその真摯な姿勢は、最終的には客先に好感を与えるこ
とにもなった。
そして、社員に対しての接し方にも変化が見られたのだ。
まるで将棋の駒を動かすように無機質に仕事の指示を与え、結果のみを追求していた彼が、部下一
人一人の動きを気にかけ、時にはねぎらいの言葉までかけるようになったのである。
それまでの速水を知るものは皆、戸惑いを隠すことができなかった。
そうして彼らは気づいたのだ。
速水にとって鷹宮との婚約がどれほど負担になっていたのかを。
婚約期間中、社長は仕事は淡々とこなすものの常に暗い雰囲気を纏い、目には精彩がなかった。
ピリついた波動は周囲の者を巻き込み、社内から活気を奪うばかりであった。
しかし、今の速水はどうだろう。
逆境に立たされているにも係わらず、彼には力がみなぎり闘志のようなものさえ感じられる。
アンテナを広く伸ばし、他の者を気にかける余裕まであるのだ。
無論、連日のハードな業務に酷使されて肉体はさすがに疲労の色が見えるが、精神的には日が経
つにつれ、ますます研ぎ澄まされている。
その理由として考えられることはただ一つ。
鷹宮との婚約破棄である。
絵に描いたような政略結婚、それが彼の意に沿わなかったということなのだろう。
「社長も人の子だったのか」苦笑交じりの言葉が囁かれる。
その"人の子"の社長に大都の社員達は、いつしかそれまでにない敬意を抱くようになっていた。
相手をきちんと認識し、適切な指示を与えて信頼のもとに仕事を任せる。
場合によっては後のフォローまでを考慮する。
速水の対応は部下達に仕事をする上での安心感を与え、更に大胆な行動力さえも生んだ。
そしてそれは自ずと結果として表れることとなる。
最初はごく小さい波であった。
しかしいつしか次第に大波となったそれは、大都という船を大海原へと漕ぎ出す。
1年半という短期間である程度の建て直しが計れたのは、この波が大きく影響していたと言っても過
言ではい。
そうして鷹宮との婚約破棄に関する損益の収拾は、1つの案件を残すのみとなったのである。
それは関西のある芸能プロダクションとの合併交渉。
東京に居を置く大都としてはその芸能プロを子会社として扱い、新たな西の拠点とする思惑が
あった。
特に大きな問題もなく話は着々と進み、仮契約書を交わして具体的な詳細について煮詰めていた。
しかし、いざ本契約というときにトラブルが発生したのだ。
そのプロダクション・・仮にAとしよう・・の社長がいきなり大都との合併を拒否し、他社Bとの提携を
考えていることを示唆したのだ。
その社長の話によると、これはBから持ちかけた話らしい。
BはAと同程度の資本規模のプロダクションであり、この統合によってAにそれほどの利益が生まれ
るとは考えられなかった。
また、飽くまで秘密裏に行われていた合併交渉にこのタイミングで横槍が入ったのも不自然である。
不審に思い背後関係を洗ってみたところ、2、3の会社を経由した形で糸を引いていたのは鷹宮で
あった。
この大財閥にとって中規模な芸能プロが大都に吸収されたところで、実のところ大したデメリットはな
い。
それをなぜ、あえてこのような手の込んだ事をしてまで阻止しようとするのか。
鷹宮老の個人的感情ゆえ・・としか考えられなかった。
だが、大都としてはA社を取り込むことによって、この度の婚約解消による損失の最終的な補填がな
される予定であり、またAの人的財産、所属する俳優等も魅力があった。
力の弱い芸能プロでは生かしきれなかった才能を大都ではいかんなく発揮させることができると踏
んでいたのだ。
それによる今後の利益も計算に入れての吸収合併工作であった。
思いも寄らない計画の頓挫により、大都本社で緊急会議が開かれた。
交渉に当たっていた営業は、当然のことながら重役連に槍玉にあげられることとなる。
なぜもっと隠密に、且つ迅速に話を進められなかったのか。
Aとの信頼関係を築くことはできなかったのか。
常ならこのような場合、Bに圧力をかけてAとの契約を遂行すれば良い話なのだが、裏に鷹宮がいる
となるとそれも不可能ではないか!
数々の非難を浴びながら12年間営業に携わってきた男は、ただ社長からの沙汰を待つばかりで
あった。
降格か左遷か。
社長の一喝の下にそれは決定されるはずである。
だが・・男は知らず唇を噛んだ。
「君は」
速水が口を開いた。
瞬間、彼は断罪を待つ。
しかしその後に続く言葉は彼が、いや、その場の誰もが予想し得ないものであった。
「君はまだ諦めてないように見えるが?」
ハッとした。
確かに考えていることはある。
だがこれはある情報の上での推論に過ぎず、このような場で発表して良いものではない。
「構わん、言ってみろ」
その思いを読み取るかのように速水は促し、男は少々の躊躇いのあと、話し始めた。
A社は資本こそ大したことはないが、中堅と言う位置を保っていたのは2、3の売れているミュージシ
ャンや俳優を保有しているためであること。
その中でも6割の利益を叩き出す若手の歌手グループがAの扱いに不満を持ち、他社との契約を望
んでいるという噂があるのだ。
彼らを大都が引き抜くということになればAとしては存続を危ぶまれるほどの大打撃となり、例え鷹
宮のバックを退けてでも、こちらとの合併話を進めるのではないか、と。
「しかし、さすがにガードが固くて彼らにはまだ接触できていません。
また、もし引き抜きをしてもA社との交渉が進まない場合の、Aとの契約破棄に関する損失と彼らを
擁した場合の大都の利益の具体的な数字を出してからの検討事項となります。
ですが私の試算としては充分に利益が生まれると考えております」
「仮定の上で成り立つ話だな」速水は顎の下で手を組む。
「やれるのか?」誰何するように鋭い視線を向ける。
「・・やります!」
男は与えられたチャンスを掴む決心をした。
「三日だ。A社はまだB社との利潤のない提携に迷いがあるはずだ。
奴らが最終的な話を詰める前にそのグループを取り込み、Aに脅しをかけろ。
そして契約を取って来い!」
「はい!!」
それはまれに見る大温情であった。
失敗した者に再び機会を与える、そんなことは今まで大都芸能の歴史の中ではありえなかったのだ
から。
大振りの窓からキラキラと眩しいほどの日差しが零れる。
「真澄様は変わられたわ」水城は穏やかに微笑んだ。
その会議の三日後である今日、契約書は彼女の手によってファイルの中へと収められたのである。
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