ギフト 2
「変わられたと言えば、あれにも驚いたわね」
水城は数日前のことに思いを巡らした。
それは速水と二人で劇団オンディーヌを訪ね、用件を済ませて帰るときのことであった。
エレベーターへと向かう途中、廊下で桜小路と出会ったのである。
速水はその青年の姿を認めると微笑み、「やぁ」と親しげに声をかけたのだ。
「えっ!?」
水城は驚きのあまり、一瞬立ち尽くした。
オンディーヌに所属している彼に対して話しかける、それ自体は特に不自然なことではない。
問題は速水の桜小路に対する感情にある。
水城は長い間、上司の中に宿る恋心を身近に見、感じてきた。
だからこそ理解できるのだ。
速水にとってこの世で最も目障りな存在は仕事相手でも誰でもない、桜小路なのではないか、と。
なぜならこの上司が誰よりも愛しく思う少女の横に、この青年は当たり前のように横に立ち、愛情を
向け続けてきたのだから。
心を隠し耐え忍ぶ年月を過ごしてきた速水にとって、それがどれほど残酷なことであったか。
想像に難くない。
常の速水ならば桜小路に会ったところで目に入っていないかのように通り過ぎるか、相手が目礼を
すればそれを返す程度であった。
それが今日はにこやかに笑いかけ、しかも挨拶までやってのけたのである。
水城にとっては下手な怪談話よりよほど恐ろしい状況だった。
そしてそれに対する桜小路の態度も、彼女に驚愕をもたらした。
この青年にとっても自社の社長は愛しい少女を窮地に立たせる人間であり、あまり好感情を持って
はいないはずであった。
いつもなら声をかけられたところで通り一遍の挨拶をするのが関の山である。
しかし、目の前の彼は速水へと足を進め、真っ直ぐな瞳を向けて挨拶をしたのだ。
「おはようございます、速水社長」と。
その姿は毅然としていて、まるで別人を見るかのようであった。
「一体何が・・」水城は息を呑むばかりである。
「速水社長、僕の次の役はウェストサイドストーリーのトニーに決まりました」
「あぁ、聞いている。オーディションに受かったそうだな。おめでとう。
日本では定番のミュージカルだ。
君にとっては新しい挑戦であると同時に、先人と比較される、難しい役どころだな」
「えぇ、だからこそやりがいがあります。僕にしかできないトニーを演じるつもりです」
交わされる言葉を水城は一種呆然と聞いていた。
「まぁ、せいぜい己れを磨くことだ」
「はい!あなたの期待以上の舞台にしてみせます」
「楽しみにしているよ」
二人は互いに不敵な笑みを交わした。
「真澄様・・?」
社長室へと向かう道すがら、水城は上司に疑問を投げかけずにはいられなかった。
何を言いたいのか察した速水は、さも可笑しげに口元を綻ばせる。
「彼は10年計画でマヤを手に入れるつもりらしいぞ。俺を追い越してな」
堪えきれずにくっくっと楽しげに笑う速水に、水城は二人の間で何らかの話し合いがなされたことを
悟った。
プーーッ。
内線のコールが突如鳴り響いた。
受話器を取る水城に受付嬢が来訪者を告げる。
「北島マヤ様がいらっしゃいました」
「お通ししてちょうだい」
時計を見ると、彼女のアポイントの時間までまだ30分ほどあった。
マヤちゃんと言えば・・グラン劇場の件ではどうしようかと思ったわ。
フフフ、と水城は思い出し笑いを漏らす。
北島マヤにアプローチをかけている男がいる。
その情報は比較的早いうちに水城の耳に入っていた。
本来なら真っ先に彼女の上司に伝えるべきなのだろう。
しかし、分単位でスケジュール管理をされている速水が、個人的な都合で社を抜けられるはずもな
く、それを知らせたところで精神的な負担にしかならないことを彼女は知っていた。
また、マヤが客演をしている今回の舞台は彼女の古くからの仲間と共に行われており、あまりに目
に余るようなら、その友人達がフォローしてくれるだろうとの読みもあったのだ。
しかし千秋楽の四日前、一本の電話が社長あてに入った。
「水城さん、青木麗様という方から社長にお電話です・・お繋ぎしますか?」
「・・例の件ね」
内線を受けた秘書の一言に、彼女はどうしたものかと考えを巡らせた。
速水が行動する上での最優先事項、それはマヤに関することである。
しかし大都芸能社長としての彼はスケジュールが詰まり、動くことができない状態であった。
「とはいえ、これ以上隠すわけにもいかないわね」
電話をかけてきた青木はマヤの姉代わりとも言える存在であり、また、聡明な女性でもあった。
彼女がわざわざ連絡をしてくるということは、よほど手に負えない状況ということなのだろう。
「社長に繋いでちょうだい」半分、諦め混じりに水城は指示をした。
数分後、バタンッと社長室のドアが開かれた。
現れたのは殺気とも言える不穏なオーラを纏った、その部屋の主である。
最近では精神状態の安定していたはずの社長のあまりの剣幕に、居合わせた秘書達は背中に
スーッと冷や汗が流れた。
「水城くん!今日のこれからの予定だが」
「役員会議の後は、明治製薬の常務との懇親会があります。
どちらも外すわけには参りません」
水城は動じず、感情のない声で告げる。
「もちろん、明日、明後日の九州への出張も予定通りに行って頂きます」
「・・・・・」速水が無言で秘書を睨む。
水城もまた、目を逸らさない。
透明な火花が二人の間で激しく散り乱れる。
静けさのあまり耳を劈くような緊張が空間を走り、他の秘書達は指一本動かすこともできない。
気を抜けば押し潰されそうな重圧を破ったのは、淡々と紡がれた水城の言葉。
「四日後、千秋楽の日には定時であがれるようにスケジュールを調整しております」
冷静に言を放つ水城に対し、速水は彼女がグラン劇場での状況をすでに把握していたことに確信を
抱く。
「水城くん」
自然、眉をひそめ、表情が険しくなる。
・・一触即発か。
不幸にもその場に居合わせた者達がゴクリと息を飲む。
が、速水は深く細い息をつき、場の空気を解いた。
彼としては正直なところ、嫌味の一つや二つも言いたいところだった。
だが、この秘書ができる限りの配慮をしてくれたのだということもまた、充分にわかっている。
本来なら水城の提示する四日後も、深夜遅くまで予定が組まれていたはずなのだから。
「わかった。では予定通りに」
速水はそれだけ言い残すと、再び社長室へと消えて行く。
後に残るのは虚脱のあまり力なく座り込む、傍観者達の姿であった。
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