捨ててくだされ、名前も過去も。
阿古夜だけのものになってくだされ。
稽古の度に紡ぐ阿古夜のセリフ。
それは私にとって泣きたいほどに訴えたい、でも決して口にすることのできない
彼へのメッセージそのままだった。
「マヤ、俺は君の答えが聞きたいんだ」
黙って泣き続ける私に、速水さんは耳元で囁いた。
答えなんて決まってる。
もうとうの昔に。
私にとって、あなた以上に想う人などこの世のどこにも存在しないのに。
でも、それを本当に言ってもいいの?
その答えを言ってしまえば
私は、そしてあなたはきっと後悔してしまう。
「会社のための結婚」
でも紫織さんは・・多分あなたを愛してる。
それに私を選んだりしたら、速水さんの立場はどうなってしまうの・・?
言葉の代わりに涙ばかりが溢れてくる。
ごめんなさい、速水さん。
あなたの真剣な眼差しを前にして、私はなんて返事をしていいか分からない・・。
「・・済まなかった」
突然、思いがけない言葉が頭の上から降ってくる。
「紫織さんのことは俺の問題なのに、君に問いかけて逃げ道を塞いでしまったようだな」
彼は私の髪を一房すくい、さらりと指で梳いた。
その仕草一つで、私の心臓はドクドクと早鐘を打つ。
「俺は君にも逃げて欲しくなかった。
これ以上の回り道はもうしたくないんだ。
俺達は充分過ぎるほどに遠回りをしてきただろう・・?」
切なげな響きに誘われるように顔を上げると、
困ったように微笑む彼と目が合ってしまった。
その表情があまりに私の知っている彼らしくなくて
せめて何かを言ってあげたくて、するりとついて出た言葉・・
「あなたが幸せなら、私はそれでいいんです」
彼は一瞬驚き、そして次の瞬間まるで咲き零れるように破顔した。
「それならば、俺の傍には君がいなくてはならない」
背中に回されていた腕に力が込められる。
私は自分が失言をしたらしいことを意識しつつも、
その優しく強固な束縛から逃れることはできなかった。
「俺を幸せにできるのは君だけだ。
そして俺も君を幸せにしたい。
マヤ・・これからの人生を俺と一緒に歩いていこう」
真摯な告白だった。
彼への想いが私の胸の内に、痛みを覚えるほどに広がって
気づくと私は小さく頷いていた。
・・ありがとう・・
その言葉は速水さんが言ったのか、それとも私が呟いたのか・・
いっそう強まる彼の抱擁の中で、私は止まることのない涙を流し続けた。
<Fin>
この後はエピローグにする予定だったのですが、もう1話続けます。
幸せな速水さんを書きたくなったので。
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