With Love −速水真澄− 1
男は向かっていた。最愛の恋人のところへ。
しかしその足取りは常に比べて決して軽いものではなかった。
主演女優の名が書かれた一枚のプレート。
その札が掲げてある部屋の前で足を止めた男は、戸を叩こうとして一瞬躊躇した。
「落ち着け・・彼女は舞台を終えたばかりなんだ・・」
己れに言い聞かせて、気を取り直すようにドアをノックする。
返ってきたのは入室を促す明るい声。
ガチャリと開けたその先にあるのは、彼を歓迎する輝くばかりの笑顔だ。
「速水さん!」
嬉しげに駆け寄るマヤに彼は持っていた花束を差し出した。
白百合をメインとしてまとめられたそれは清楚なイメージで、先ほど舞台に存在した神々しい天女に
よく似合っている。
もっとも本当に贈りたいのは違う花なのだが・・今の段階でそれを直接手渡すことは憚られた。
北島マヤにとってその華美な花がどのような意味を持つのか、あまりに知られすぎていたために。
「よくやったな、ちびちゃん。良い舞台だった」
率直な称賛の言葉を受け、マヤは嬉しげに頬を染める。
「君の紅天女は生きているんだとつくづく思うぞ。見る度に新しい発見がある。いや、観客席に
いる間はそんなことを思う余裕もない。惹きこまれて自分というものを何もかも失ってしまう・・」
実際彼女の演技は彼を魅了し浮世の一切を忘れさせた。
そう、今、彼を悩ませる憂さごとさえも。
―――マヤの気持ちが自分にあるということは自惚れでなく理解しているつもりだ。
それなのにこれほど苛つくのはなぜなのか。
「大都芸能の速水真澄ともあろう者が・・」
既に口癖のようになった言葉を呟き、軽いため息を漏らす。
「ごめんなさい、速水さん。もう少しで支度が終わるから・・」
その様子に彼が待ちわびていると思ったのか、脱いだ着物を畳みながらマヤが声をかける。
「ああ、急がなくてもいい。その間、一服させてもらうとしよう」
真澄は愛用のタバコを取り出し、軽やかな仕草で火をつけた。
紫煙の向こうで数時間前に交わした会話が浮かび上がる。
「北島はこれから舞台を控えている。分かっているよな、若旦那。痴話喧嘩はその後に存分に
やってくれ」
皮肉混じりに釘を刺す演出家の言葉・・それに曖昧に微笑んで了解の意を示す。
分かっていますよ黒沼さん。
彼女の演技をつまらない嫉妬で汚すことはできない。
そう、つまらないことなのだ。
それでも胸に刺さる短くも太い棘は、抜けることなく居座り続けている―――
思考に耽る彼の頬に、突然ふわりと柔らかいものが触れた。
物思いを中断させたそれは、彼の心を捕らえて離さない恋人の人差し指。
「速水さん、何をそんなに難しい顔をしているんですか?」
くすくすと笑うマヤに愛しさが込みあげる。
この笑顔は俺のために向けられたもの、俺だけのものだ。
溢れる思いは無意識に両の手を動かし彼女の身体を捕らえた。
「速水さん、あ、あの、そろそろ行かないと予約の時間に遅れちゃうんですけど」
一向に緩める気配のない腕の中で、マヤが訴えた。
これから訪れる予定のレストランがどのような店なのか速水は知らない。
マヤが選び、マヤが予約した店だからだ。
甘いものは苦手だという彼のために、彼女自身がセッティングをした・・今日、このバレンタインデーと
いう日のために。
その想いが嬉しくて、一ヶ月ぶりの逢瀬が楽しみで、山のように積み上げられた書類を、トラブル続
きの案件を日々こなしてきたのだ。
そんな待ちに待った幸福であるべき時間を揺るがすのは、一枚のメッセージカード・・
「速水さん、何か・・あったの?」
真澄の様子に常とは異なるものを感じたのか、マヤが訝しげに疑問を投げかけた。
その問いにつられたのか、彼の口からぽろりと言葉が零れる。
「・・チョコレート、配ったのか」
「チョコレート?」
きょとんとして聞き直すマヤに、「しまった!」と心の中で舌打ちをする。
真澄とて分かっているのだ。
バレンタインデーに知り合いにチョコレートを渡す・・それは飽くまで付き合いであり他意はないのだと
いうことを。
そしてそれにこだわる事がどれほど愚かしい行為かということも。
・・マヤも俺の嫉妬深さに呆れ果てることだろう。
己れの迂闊さが腹立たしい。
「速水さん、もしかして・・」
ビクリと身体が震えた。
顔を覗き込むマヤの発する言葉を恐れて―――
ホワイトデーをとっくに過ぎてからのUPです。
しかも前後編です。
・・何もおっしゃらずに広ぉい心で読んでやってください・・
それにしても、このバレンタインシリーズは軽い話のはずがなんでしょうこの重さっっ。
全ては速水さんの嫉妬深さが原因かと。(←逃げ)
後編はかるーーくします。なるはずです、多分。
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